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飯山一郎の白蛇様
『文殊菩薩』  What?  Photo 末世の争乱近し.英雄出ず.ひたすら健康延命図るべし.

※ 一日一食は聖者の食事。一日二食は人間の食事。一日三食は動物の食事。 記 事    

孔子伝(11):魯国でクーデター勃発

八佾
八佾(はちいつ)の舞

孔子が洛陽から魯国に戻ってきたころ、国内では魯国の君主と貴族たちが緊張状態にあり政治的危機に発展していた。魯国で最も権力を握っていたのは貴族の季孫氏で、それに続いて孟孫氏と叔孫氏があった。これら三家はみな魯の桓公の子孫であったため、当時の人々からは「三桓」と呼ばれていた。

紀元前562年ごろに季孫氏の要求により魯国の政府は軍隊の改変に着手し、君主に兵卒を提供していた村落共同体は上・中・下の三軍に分けられ、「三桓」がそれぞれ一軍を率いることとなった。季孫氏らがこのような軍の改革を進めたのは、軍権を君主から奪い取って自家の私兵にするためであった。

こうして「三桓」とりわけ季孫氏の実力が増強されたが、魯国の君主の実権は大幅に低下し権力の伴わない君主となっていた。例えば季孫氏の季平子は君主のところから引き抜いた楽団と自分の家の楽団を併せて八佾(はちいつ)とし、天子だけがとり行えるとされていた八佾の舞による楽舞を主催して権力を誇示した。

これには君主の昭公もさすがに激怒し、魯国朝廷の大臣たちの間にも季平子への不満が高まっていた。昭公は季孫氏を殺す計画を立てて軍を率いて討伐に乗り出し、まず季平子の兄弟の季公之を血祭りにあげて季孫氏の門に攻め入った。ところが叔孫氏の家臣が兵を率いて季孫氏の救援に駆けつけ、孟孫氏も挙兵して昭公の部隊を撃退した。

この挙兵が失敗した事で、昭公を支持していた人たちはみな散り散りに逃げ、昭公も亡命を余儀なくされる事となった。昭公は侍従を連れて斉国へ逃げ、その後に再び晋国へ逃げその後七年にわたる亡命生活を送り最後は晋国で客死した。

孔子が洛陽から帰った後に体験したのは、こうした魯国の君臣間の争いとクーデターの勃発であった。この闘争の中で双方が示した陰謀や権力欲は、孔子の目を背けたくなるような醜いものであった。孔子は季平子の八佾の舞について、「八佾の舞はとても許せるものではない」と批判している。

国の君主たるものが君主らしく振舞わず、臣下たるものが臣下として振舞わず、完全に礼の尊敬の心や謙譲の原則を忘れ、君臣の分が乱れていることに孔子は心を痛めた。この事件をきっかけに孔子は亡命した昭公の後を追うように、門徒たちと共に斉国に行く決意を下すことになる。

野崎晃市(42)

孔子伝(10):孔子 VS 老子

孔子と老子
老子に道を問う孔子

周王朝の首都の洛陽に留学した孔子が訪問した最も重要な人物の一人は老子であった。老子は社会経験が豊富で古代の歴史に通じていながら、礼に対して厳しい批判的態度を表す反骨の老人であった。

孔子が彼に会いに行った目的も礼儀について教えを請うためで、『礼記・曾子問』などによれば孔子と老子は主に葬儀に関して議論をしたと伝えている。

孔子は首都で有名な学者を訪問して知識を吸収し、将来は上層社会に仲間入りして政治や教育に役立てるつもりであった。しかし老子からすれば、孔子が熱心に学んでいるものは華やかに見えるばかりで実用性がないと思えるものばかりだった。

老子からすれば礼儀の煩雑な細かな規則にこだわれば、質朴な天然の人間性を失ってしまう。人間が偽りのない天然の人間性を失えば詐欺や偽善を生じるため、社会が乱れるのだと考えていた。

それゆえ、老子に言わせれば礼儀などというものは「忠義が形式化した余りカス」であった。そのため孔子が教えを請いに行った時に、老子はいささかぶっきらぼう次のように答えた。「あなたは傲慢さと貪欲さ、自我の強さと妄想を除くようにしなさい。」

孔子が留学を終えて魯国に戻る前に老子に別れを告げに行くと、老子は孔子を門まで見送って別れの言葉を次のように送った。

「聡明で洞察の深いものでも早く死んでしまう人は、人をあれこれ議論するからだ。雄弁で博学なものでも自分を危険な立場に置く人は、他の人の悪をよく暴くからだ。あなたも自分の主張をあまり強く出さないようにしなさい。」

孔子は老子の博学さと思想の深さに圧倒されたが、どこか神秘的でとらえどころがないようにも感じた。後に門徒に老子の印象を次のように語っている。

「私は鳥が空を飛ぶものである事を知っている。また私は魚が水中を泳ぐものである事を知っている。しかし、龍がどうやってそれが天を飛び雲に乗るのかは分からない。私が老子に出合った感想は、この龍と同じようなものだ。」

以後、中国で孔子は科挙を受けて高級官僚を目指す政治家や文人の祖として崇められたが、老子は世俗を避けて山に隠棲し仙人を目指す道家の祖となり、中国の異なる2タイプの知識人の生き方を代表することになる。

野崎晃市(42)

孔子伝(9):首都の洛陽への留学に推薦される

忠恕堂
曲阜の孔子忠恕堂

孔子は私塾経営により有名になり、魯国の貴族から首都の洛陽への留学の推薦を受けることになった。もっとも早期に孔子に注目したのは魯の大夫であった孟僖子(もうきし)である。

この人物は魯の昭公に従って楚国を訪れた際に礼儀を知らずに恥をかいたことがあり、礼儀を中心に教える孔子の教育方針を支持していた。

孟僖子は孔子が三十四歳の時に病没したが、臨終前に息子の孟懿子(もういし)と南宮敬叔(なんきゅうけいしゅく)を孔子に託して礼を学ばせた。

孟僖子が子供の教育を孔子に託したことは、孔子の私塾が民間だけではなく政府や上層階級の貴族の間でも注目されるほどになったことを示している。またこれが孔子の首都洛陽への留学と以後の政治活動に道を開くことになった。

特に孟僖子の息子の南宮敬叔は首都へ留学することになっていたが、まだ未成年であったため孔子が留学に同行する家庭教師として推薦された。

魯国の君主はそれに同意し、特別に孔子に車や馬と召使の少年を賜った。君主の支援は孔子に交通の便を与えただけでなく、孔子の今回の留学にハクを付けた。

周王朝の首都の洛陽は最大の都市で政治と文化の中心であった。その文化と典籍の豊富さにおいても群を抜いており、最も完備した国家の儀礼制度が保存されていた。

ここには有名な学者であった老子が周王朝の収蔵室で歴史を研究していたし、宮廷音楽の専門家の萇弘(ちょうこう)から音楽について話を聞くこともできた。

以前に陽虎が孔子の宴会参加を阻止して侮辱した昔日に比べ、現在は魯の権力ある貴族や君主から教育家として認められるようになったが、その間には既に十七年もの歳月が流れていた。

野崎晃市(42)

孔子伝(8):教えありて類なし

孔廟
曲阜の孔子廟 大成門

「教え有りて類なし」これは孔子が門徒を募集する際に、身分・収入・階級の区別なく分け隔てずに受け入れる教育方針を表した言葉である。門徒たちは束脩(そくしゅう)と呼ばれる干し肉の束を持ってくれば、だれでも入学して教えを受けることができた。

この孔子の教育方針そのものが、旧来の貴族や高官の子弟だけを相手にしていた教育への一つの大きな挑戦でもあった。孔子の私塾の門は、始めから一般の民衆と彼らの子供たちのために開かれていたのである。

例えば初期の門徒の子路はもともと喧嘩を好む遊興の徒で、頭には鶏の毛を挿し、身には派手な飾り物を身に着け、腰には長剣を帯びていた。子路は現代ならば喧嘩が好きなチンピラか暴走族にでもなりそうな不良青年だったのである。

子路が初めて孔子を訪れた時も、評判の新米教師に難題を吹っかけて鼻を明かしてやろうという魂胆だった。しかし応対に出てきた孔子は180センチと大柄な堂々たる体格で、礼をもって対応したとはいえ威圧感があり子路をたじろがせた。

子路は威圧されてなるものかと、「礼儀や学問など習ったところで、いったい何の役に立つのか」と孔子に食ってかかった。また孔子が彼に何が好きかと尋ねると、子路は長剣を振うのが好きだと腕っぷしを自慢した。

そこで孔子は弓道や馬術など子路の好きな武道に例えて学問の仕方を説明することにした。孔子は学問の重要性は例えば馬を御すには鞭が手放せないこと、弓を上手に射るには弓の調節が必要なことと同じであると説明した。

子路はそれに反論して「竹は人が手をかけなくてもまっすぐに伸びて、それを切って矢にすれば動物の皮も突き破る」と応じた。孔子は「もし切った竹を削って羽毛をつけ矢じりをつけなければ、どうして深く射ることができるだろうか」と子路をたしなめた。

子路はこの孔子の即答の妙にすっかり感心し、また孔子が自分の好きな武道にも理解があることがわかったのですっかり気に入ってしまった。

子路が孔子の塾に通い出してしばらくすると、子路の服装が清潔になり礼儀正しくお辞儀するようになった。周囲の人々はあの乱暴者がと、その変化に驚いた。

子路のように出身階級が低いため十分な教育を受けられなかった青年こそ、孔子にとっては最も歓迎すべき生徒であった。孔子はたとえ彼らに欠点があったとしても、それを克服するように助ければ社会に有用な立派な人間になると信じていたのである。

野崎晃市(42)

孔子伝(7):三十にして立つ

孔府大堂
孔府の大堂

孔子は二十歳代には魯国の貴族である季氏の下で働く雇われ人であったが、三十歳になる前に独立して私塾を設立する決意を固めた。いわば雇われのサラリーマンが会社を辞め、独立して新会社を起業したようなものである。

孔子は当時としては比較的早期に私塾を創立したことにより、中国最大の教育家として知られることとなった。孔子による私塾の創立は文化の下層階級への普及を加速させ教育史上でも画期的な出来事となった。

春秋時代以前に学問は王侯貴族や高官の子弟の占有物で、学術は王室や宮廷の専門家のためのものであった。しかし春秋後期に生産力の向上と私有経済の発展、戦争と各国内部の政治闘争の激化がこれら旧貴族の没落や離散をもたらした。

旧貴族の没落にともない、貴族層は国家の必要とする人材を十分に生みだすことができなくなった。しかし下級の「士」階級には知識や実際の事務能力に長じた者がおり、彼らは政府から選抜される人材供給源となっていった。

それで平民・商人・遊民の中にも文化的素養を高めて、「士」階級の仲間入りをしたいと欲する者が現れた。孔子の創立した私塾は、そうした宮廷や国家の官吏を目指す若者に基礎教育を行う私塾となった。今でいえば国家公務員・弁護士・政治家を目指す若者を集めた専門学校のようなものである。

春秋戦国時代は孔子のような民間の学者が多く出現して学派や私塾を形成して諸子百家と呼ばれ、中国の思想界は百家争鳴と呼ばれる空前の繁栄を迎えることとなるのである。

野崎晃市(42)

孔子伝(6):二十にして結婚す

孔子の息子の墓
孔子の息子 孔鯉の墓

孔子に「十五にして学に志し、三十にして立つ」という有名な言葉がある。なぜ十五歳から三十歳にいきなり飛んで、二十歳がないのだろうかと疑問に思ったことはないだろうか。

実は孔子は二十歳の時に重大な人生の転換点を迎えているが、それをあえて伏せているのだ。その人生の転換点とは結婚と出産で、孔子は十九歳で結婚して二十歳で子供の父親となっている。

確かに「十五歳で学問に志す」の後に、続けて「二十歳で結婚して子供を産んだ」と言ったのでは何か学問に集中していないようにも聞こえてしまう。そういうわけで聖人孔子もやるべきことはやっていたのだが、プライベートにはあえて言及しなかったのだ。

孔子は十九歳で幵官氏と結婚したが、結婚する前に宋国に赴いて殷礼を研究した。伝えられるところでは夫人は宋国の人であるので、二人は孔子が宋国で留学時代に知り合ったのかもしれない。

孔子が結婚して一年後に息子が生まれた。魯の昭公から出産祝いに鯉が送られたので息子の名前を鯉、字を伯魚と呼んだ。結婚して家庭を持ち子が生まれたことは孔子に喜びをもたらしたが、同時に家庭の経済的責任を担い生計を立てるために仕事に就かねばならなくなった。

『史記・孔子世家』によれば孔子は結婚後に季氏の家で「委吏」として雇われて倉庫の管理者として働き、その後に「乗田」となり季氏の家畜を管理した。孔子は立派に仕事をこなし委吏となった時に会計は正確で、乗田となったときは牛や羊がよく育ったと記されている。

ただし孔子と妻の結婚生活はあまりうまくいかなかったようで、孔子の子孫の孔頴達は孔子が離婚して妻を実家に帰したと伝えている。また『礼記・檀弓』には孔鯉が母親の逝去を泣いていると、孔子からあまり泣かないようにたしなめられたともある。

孔子の結婚生活が後に破綻したことも、二十歳での結婚と出産に触れなかった原因の一つかもしれない。

野崎晃市(42)

孔子伝(5):就活の面接で門前払いにされた孔子

曲阜の孔子旧宅
曲阜の孔子旧宅の門

孔子が十七歳の頃に、魯の大夫であった季武子が「士」を招待して宴会を開いた。季武子が政府首脳として「士」のために宴会を開いたのは、その中から将来有望な人材を登用するための面接を兼ねていたようだ。
 
この年に楚の霊王は章華台と名付けられた建築物を建設し、各国の諸侯に落成式に参加するよう招待した。三月に魯の昭公は孟僖子と楚に赴き、その途上で鄭国に立ち寄った。その際に鄭の簡公が城門に出迎えて慰労したが、魯侯の副使であった孟氏はどのように答礼すればいいのか知らず取り乱した。

また楚国に到着して楚王が城外で慰労式典を催した際には、君主ですらどのように答礼すればいいかわからず狼狽してしまった。東方の礼儀の国とみなされていた魯国の君臣が外交儀礼の場でこのように無知をさらしたことは、当時としては甚だ面目を失うことであった。

この事件は魯国の政府を大変にあわてさせ、九月に孟僖子が帰国すると礼義に関する知識がある人間を探して学ぶように命じた。季氏がこの年に「士」のために宴会を開いたのは、礼儀作法に詳しい人間を登用するためではなかったかと考えられる。

孔子は「士」を招待した宴会の知らせを聞くと季氏の邸宅にいそいで駆け付けた。孔子は葬儀などの儀式の知識と経験があり、運が良ければ登用されるかもしれないと考えたのであろう。しかし季氏の邸宅の門前まで来た孔子は、季氏の家臣の陽虎に「季氏は士を招待したのであって、お前など呼んではない!」と門前払いにされたのである。

当時の孔子は母親の喪中の期間で腰にはただ麻のヒモを結んだだけであったが、陽虎の目には貧しくて何の力もない場違いの若者に見えたのであろう。いわば始めて就活の面接を受けようとした学生がスーツも着用せずに面接会場に出かけ、受付で入場を断れたようなものである。

この挫折を経験した後、孔子はさらに礼儀を磨くことによって将来登用される道を切り開く決心をした。一方で陽虎は権力を握るためには手段を選ばないというタイプの人物で、孔子が成長した後もしばしば政治的理念や権力闘争の面で邪魔をするライバルとして現れる。

野崎晃市(42)

孔子伝(4):十五にして学に志す

曲阜の三孔
曲府の城壁

春秋時代の魯国は礼制度の基礎を据えた周公旦を祖とする国であったので、礼や楽などの周王朝の文化と伝統が色濃く息づいていた。曲阜は首都の洛邑に次ぐ礼楽文化の中心とみなされ、文化や典籍が豊かなことで有名な街だったのである。

孔子は十五歳に達する前は平民の学校に通い一般的な文化や軍事知識を学んだだけでなく、伝統的な礼儀についても教育を受けたであろう。古代の学校は「校(こう)・序(じょ)・庠(しょう)」などと呼ばれ、春秋時代には「郷校」と呼ばれていた。

しかし平民の通う普通の学校は孔子の知的好奇心を十分に満足させるものではなかった。ただし孔子は貴族の入る高級な学校に行く資格がなかったので、どうにかして独学で学問をする志を立てたものと思われる。

孔子の独学の方法とは次のようなものであった。三人が集まれば必ずその中に優れた特技を持つ人がいるので、劣った人はその人から学ぶことで進歩でき、三人でお互いの特技を学びあえばよい。

こうして孔子にとってはどこでもが学問の場であり、孔子の所在地が文化と情報の中心と変化するのであった。ちょうどソクラテスの周囲に新しい学問を求める若い人たちが自然と集まってきたように。

しかし孔子の学問によって身を立てるという志は大変に困難な状況での決意であった。ちょうど十五歳を過ぎたころに孔子の母親の顔徴在が世を去ったからである。

孔子の「十五で学に志す」という言葉の背後には、彼が一番頼りにしていた母親を失った悲しみの中で学問を続けた当時の苦労に思いを致すべきであろう。

野崎晃市(42)

孔子伝(3):孔子は若いころ葬儀屋だった?

舞雩台
曲阜の舞雩台

孔子の母親の顔徴在は幼い孔子を連れて、魯国の首都であった曲阜で生活した。曲阜には後に孔子の最も優れた弟子となる顔回など顔氏が多く住み、孔子は母親と同じ顔氏の一族から保護を受けて育ったのであろう。

儒教の「儒」の字は台の上で雨乞いをする人の象形文字だと見られることから、顔氏は雨乞いの儀式を行うシャーマンの一族であったという学説がある。確かに曲阜の街の外れには雨乞いのために舞を奉納する「舞雩台」と呼ばれる高台があり、孔子もしばしばここを訪れている。

しかし殷の時代に盛んであった呪術やシャーマニズムは周王朝では国家行事から排除され、シャーマンや巫女は民間の葬儀屋にまで落ちぶれていたようだ。孔子の隣人が輓父と呼ばれる霊柩車の車夫であったことからも、周囲が葬儀を職業の一つとしていたことが分かる。

『史記・孔子世家』によれば孔子も小さい時に遊びごとで祖豆を並べて、儀礼のまねごとをした。孔子自身も何度か葬儀を執り行ったらしく、老子と共に葬儀を執り行ったという伝説や、衛の大夫の司徒敬子の葬儀を主催したという記録がある。

また墨子が儒者を「富んだ人の葬式があれば喜んで一族を引き連れ飲食にふける」と批判していることも、儒者が民間で葬儀や雨乞いの儀式を職業とする集団だったという説を裏付けている。

古代において葬儀でのお供え物や儀礼や道具の使い方などには、詳細で厳格な諸規定があった。それらに熟知していたことで孔子は儀礼の専門家として取り立てられ、儀礼を社会秩序の重要な要素と見なすようになったのかもしれない。

野崎晃市(42)

孔子伝(2):孔子の母親はシングル・マザーだった

夫子洞
孔子の生誕地とされる尼山の夫子洞


孔子の母親は顔徴在(がんちょうざい)といい、父親の叔梁紇(しゅくりょうこつ)の第三夫人でしかも正式な結婚ではなかった。叔梁紇の第一夫人の施氏は九女を生んだが男子に恵まれず、第二夫人の産んだ男子は足の障害があり不自由であった。

そこで叔梁紇は跡継となる男子を生める若い娘を紹介してほしいと顔氏に相談した。顔氏が自分の娘達に意向を尋ねると、長女と次女は拒否したが末娘の顔徴在が父親の説得に応じたと『孔子家語』が伝えている。

また『史記・孔子世家伝』には孔子の父親と顔氏の娘は「野合」して子を生み、尼丘に祈って孔子を得たとある。叔梁紇が六十歳を過ぎて十六・七歳の顔徴在に産ませた子で、正式な結婚ではなかったため「野合」と表現されているようだ。

孔子が生まれて間もなく父親の叔梁紇が世を去ったため、顔徴在は叔梁紇の家から追い出されたか身分を認められなかったらしい。顔徴在は女手一人で育子供を育てざるを得ず、再婚もせずにシングル・マザーとなった。

こうして孔子の出自には秘められた複雑な家庭の事情があったため、孔子は父親が誰かを知らずに育った。『礼記・檀弓』には孔子は若くして父なし子となり、父親の墓を知らなかったとある。母親の死後に隣家から自分の出自に関する話を聞いて、ようやく孔子は父親が誰かを知ったのである。

野崎晃市(42)

孔子伝(1):孔子は殷王朝の末裔

周公廟
曲阜の周公廟


山東省出身のもっとも有名な思想家といえば、問題なく孔子が第一番に挙げられよう。孔子が暮らした魯国の首都曲阜は青州から高速鉄道に乗れば二時間ほどで行くことができる。私は曲阜には四年前に訪れており、孔子にちなんだ各地の遺跡を巡って歩いたことがある。

孔子の先祖は宋国に封じられた殷の紂王の異母兄の微子啓にまでさかのぼる。孔子は自分の先祖の系譜について明確に自覚していたようで、『礼記・檀弓上』によれば孔子は臨終前に「私は殷人である」と告白している。

孔子は先祖の木金父(ぼくきんほ)が宋国で政敵に追われ、魯国に亡命してから第六代目になる。魯国はもともと奄国の土地で、以前は殷人の東方における同盟国であった。

周公旦が奄国を滅ぼして魯国の祖となったが周公旦自身は周王朝の朝廷に残り、封国の魯国には子供の伯禽を派遣して支配させた。それで魯国は周公旦の一族に統治されていたとはいえ、居住民の多くは殷人の末裔であった。

孔子は周公旦を尊敬し夢にもしばしば見るほどであったが、それは周公旦という魯国の建国者を崇めることが魯国の朝廷で仕官することを願う孔子にとって必要だったからでもある。

しかし殷人の子孫である孔子にとってみれば周公旦は殷を滅ぼしたかつての敵でもあり、孔子の政治的立場にも微妙な影響を与えたであろう。

野崎晃市(42)

中国金融当局がビットコインに警戒感

中国ビットコイン
中国とビットコイン


中国人のビットコインへの投機による資金の海外流出を食い止めようと、中国中央銀行が「ビットコインのリスク予防に関する通達」を出した。さらに中国金融当局がビットコイン取引所の中国責任者を呼び出して、法律面や技術面でのリスクについて話し合うと発表した。

最近のビットコイン暴騰は主に中国人の投機によるもので、なんとビットコイン取引の90%が中国人によって占められていた。理由は中国でのビットコイン取引にかかる手数料が安かったことで、中国人による大量の投機と海外への資金流出を引き起こした。

これに警戒感を抱いた中国中央銀行はビットコイン取引に関する通達を発表し、中国金融当局が規制に乗り出す可能性が高まった。昨日はビットコインが史上最高値を付ける一方で、中国当局のビットコインへの警戒感を受けて一時20%近く暴落するなど波乱の大きい相場となった。

中国当局がビットコイン取引への介入や規制に踏み切れば、ビットコインに流れていた中国の投機も冷え込む可能性があり今後の中国金融当局の対応が注目される。

野崎晃市(42)

大淫婦バビロンは倒れた!

大淫婦バビロンと野獣
野獣に乗る大淫婦バビロン


バビロン・システムとは人々を奴隷とするため、国債等により一生かかっても返せない借金を負わせ人々の自由な時間と労働力を収奪するシステムのことである。現代においてはピラミッド型の権力構造、中央銀行を通じた紙幣発行権、石油や原子力によるエネルギー支配等が組み合わさり強固なシステムとして人々を支配してきた。

2017年はこのバビロン・システムが揺らぎ始め、疑問を持つ人々がますます増えることでやがて崩壊に至る前兆が見えるだろう。これらはネットによる情報の拡散、仮想通貨や電子通貨の発行による中央銀行による貨幣発行独占権の崩壊、電気自動車や太陽光発電の普及による石油中心のエネルギー支配体制弱体化によって引き起こされる。

黙示録のアレゴリーによれば、バビロン・システムの崩壊はこれまで大淫婦バビロンにより金と情報で操られていた野獣で表現される王族や軍人などの反逆によってもたらされる。しかし、彼らを操っていたバビロンという統制力を失った野獣は七つの頭を持つのでやがて共食いを始めるだろう。そして野獣は火と硫黄の燃える地獄へと投げ込まれ永久に火で焼かれる。

長い夜が明けて、朝を告げる鶏の叫び声が聞こえてくる。
夜の暗闇の中からおぼろげながら遠くの空に明かりが見える。
遠くに見える煙はバビロンが焼け落ちていく煙だ。
野獣の上に跨り人々を奴隷とした大淫婦バビロン。
しかし彼女の滅びは一夜にしてやってくる。
そして野獣とその偽預言者たちも、火の燃える地獄へと落とされる。
バビロンは倒れた!大いなるバビロンは倒れた!

野崎晃市(42)

中国で外国人のランク付けが始まる

点数表
ランク付けの基準点


中国で就労許可を外国人に発行するにあたり、2017年の4月からABCのランク付けをする新たな制度が始まる。この制度はすでに2016年10月から山東省を含む一部の省で実施が始まっており、外国人移住に大幅な制限が課せられそうだ。

ABCのランク付けは点数制によって振り分けられ、学歴・中国語能力・収入・職業上の経験などによって点数が加算される。点数によりA(ハイレベル人材)、B(専門人材)、C(一般人材)と振り分けられ、中国で雇用する人材はB以上が望ましいとされる。

この新たな制度はハイレベルな人材の獲得と犯罪者や不良外国人の流入を防ぐ目的があるようだが、中国に進出している日系企業ではかなりの混乱が予想されている。中国での就職や移住を検討している方は、中国語の学習を進めるなど早めの対応が求められる。

野崎晃市(42)

近代中国のロマン派詩人(10):徐志摩とタゴール

タゴール
右から徐志摩、林徽因、タゴール


インドの詩聖タゴールは三度中国を訪問しているが、三度とも徐志摩が通訳として接待している。タゴールは中国のロマン派詩人たちに大きな影響を与え、徐志摩・聞一多・林徽因・胡適等はタゴールの詩の影響を受けて雑誌『新月』を発刊した。この雑誌にちなんで、彼ら近代中国のロマン派の詩人は「新月派」とも呼ばれている。

タゴールの最初の中国訪問は1924年4月12日のことで、日本郵船「熱田丸」に乗って上海を訪問した。タゴールは1カ月以上中国に滞在したが、5月8日にはタゴールの64歳の誕生日を祝う演劇が上演された。劇の題材はタゴールがインドの伝説を元に書いた詩劇「チトラ」で、林徽因が主人公の姫を演じ徐志摩が姫の愛馬を演じた。

タゴールは徐志摩の林徽因に対する愛情を感じ取り、林徽因に徐志摩との感情問題を尋ねた。しかし、林徽因は婚約者の梁思成がいることを理由に徐志摩を拒絶している。その時にタゴールは二人の愛情のすれ違いを残念そうに、次のような詩を作った。


深く青い天空は
大地の輝く緑を愛した
天空と大地の間でそよ風がため息を漏らす
ああ!


タゴールの二度目の中国訪問は1929年3月で、当時は徐志摩と陸小曼が結婚したばかりの時であった。その時は3日だけの日程であったため、徐志摩の家に宿泊して詩や絵画の話に花を咲かせた。

タゴールの三度目の中国訪問は1929年の6月で、ヨーロッパ旅行からの帰りに中国に立ち寄った。その時にタゴールは徐志摩に自分の着ていた紫色の長いインド風の衣服を記念に贈っている。その後もタゴールと徐志摩は、徐志摩が亡くなるまで手紙で密接な交際を続けた。

野崎晃市(42)
文殊菩薩カウンター
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