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飯山一郎の白蛇様
『文殊菩薩』  What?  Photo 末世の争乱近し.英雄出ず.ひたすら健康延命図るべし.

※ 一日一食は聖者の食事。一日二食は人間の食事。一日三食は動物の食事。 記 事    

トランプ政権は北朝鮮との協議を準備中だった

朝鮮女性外交官
北朝鮮米国担当女性外交官の崔善姫

日本の金正男暗殺関連報道では3月にもアメリカが北朝鮮に攻撃を加える計画があったなどと一部で報道されているが、一方でワシントン・ポストはトランプ政権が北朝鮮との協議を準備中だったと報道した。

北朝鮮と米国との協議は半官半民のトラック1.5形式で行われ、米国シンクタンクの全米外交政策委員会(NCAFP)が北朝鮮政府高官をアメリカに招いて開催される予定だったという。実現すれば5年ぶりに米国と北朝鮮との協議が実現することになる。

この計画はトランプ大統領の米朝協議再開への意向を受けた動きであった。トランプ大統領は就任前に北朝鮮との国交回復を目指す意向を表明し、金正恩を米国に招待してハンバーガーをご馳走したいなどと発言していた。

米国に訪問を予定していたのは北朝鮮外務省米国担当女性外交官の崔善姫で、彼女は以前より北朝鮮の核を巡る6カ国協議に出席し米国外交筋によく知られているという。

現在は北朝鮮高官の渡航ビザの発給を国務省に働きかけている段階のようだが、最近の北朝鮮によるミサイル発射や金正男暗殺などにより動きが停滞している模様である。

19日にワシントン・ポストが米朝協議の計画を報道したことを考えると、金正男がなぜこのタイミングで暗殺されたのかという疑問の答えが見えてくるような気がする。

野崎晃市(42)

ドラマ「大秦帝国の崛起」

蘇秦の墓
山東省にある蘇秦の墓

最近、中国中央テレビで放送されている歴史ドラマ「大秦帝国の崛起」を見ている。このドラマは、秦の始皇帝の祖父にあたる秦の昭襄王の時代を扱った時代劇だ。

昭襄王は始皇帝の影に隠れてあまり有名ではないが、秦国で最も長く56年間も統治し秦を強国に育て上げた名君であった。

なぜ昭襄王が主役のドラマが作られたかと言うと、昭襄王の母親の一生を扱った「羋月伝」というドラマが数年前にヒットしたため、この時代に対する関心が高まったためのようだ。

ドラマ「大秦帝国の崛起」では、以前にもこのブログで紹介した斉国の孟嘗君のエピソードが出て来る(記 事)。もともと斉国の宰相だった孟嘗君を、秦の昭襄王がスカウトして秦の宰相に招聘しているのだ。

ところが昭襄王は後に孟嘗君が斉と通じていると疑い暗殺しようとする。秦から危機一髪で逃れた孟嘗君は再び斉国に戻り宰相に返り咲く。

このドラマでは孟嘗君が斉国を出て秦国へ行かざるを得ない情況を作り出したのは、合従策で知られる縦横家の蘇秦であったように描かれている。

蘇秦に関しては1973年に長沙の馬王堆墓から見つかった『戦国縦横家書』などにより、司馬遷が「史記」に描いた人物像にかなり誤謬が含まれていたことがわかっている。蘇秦には蘇代・蘇厲という兄弟がいたのだが、司馬遷はしばしば蘇秦と兄弟たちの業績を混同しているらしい。

そうしたこともあり、このドラマでは蘇秦の果たした役割について、大幅に新しい解釈を取り入れているようだ。ドラマでは蘇秦は秦に対抗するために合従策を唱えたというより、斉を滅ぼすために行動したことになっている。

歴史も時に新たな発見により大幅に訂正されたり解釈が変更されることがあり、それが現代人の意識まで変えることがあるから面白い。

野崎晃市(42)

中国東北地方でトウモロコシ廃材の再利用

トウモロコシ廃材
大量のトウモロコシ廃材

最近、飯山事務所に相談が寄せられているのは、中国東北地方におけるトウモロコシの芯や皮など非食用部分の処理と再利用に関する問い合わせである。

中国東北地方では大豆・トウモロコシ・コーリャンなどの栽培が盛んだ。しかし、トウモロコシ農家では、大量のトウモロコシの茎・皮・芯などの廃材が生じてしまう。

これまではトウモロコシの芯などの廃材は乾燥させて燃やしたりなどしていたが、これを発酵させて有機肥料として再利用するプロジェクトが進めらられている。

従来の方法は、トウモロコシの芯を乾燥させて粉砕し発酵液に浸して有機肥料として再利用するという方法である。この方法は既に実用化されている場所もあるがトウモロコシの芯の量が多すぎて、発酵させる一連の処理が追いつかない状態だという。

そこで、グルンバを使用してもっと簡便にトウモロコシの芯を処理する方法を開発中だ。畑の一隅にトウモロコシの芯を積み上げ、そこにグルンバで生産した大量の発酵液をかけブルーシートをかぶせて一か月程度置いておく。

一か月ほど経つと、トウモロコシの芯が発酵してぽろぽろと砕けやすい状態に変化する。その状態になった芯を畑にまいて、トラクターで土と一緒に耕すとそれだけで有機肥料に変身するのだ。

現在は東北地方の気温はマイナス20度で氷雪に覆われているが、4月に入って暖かくなるとトウモロコシの廃材再利用の実験が始まる予定だ。

野崎晃市(42)

李鴻章とロスチャイルド

李鴻章
李鴻章

中国は清朝末期に朝廷内部や重臣までイギリス系秘密結社に買収されていた。そうした清末の売国官僚の中で最も有力だったのが李鴻章である。李鴻章は伊藤博文と日清戦争の賠償を決めた下関条約などを結んだことで、日本でもよく知られた中国の政治家だ。

その李鴻章がロスチャイルドに当てた1899年4月6日付の手紙が残っている。内容は共同で中国の河南省焦作市に炭鉱を経営する会社「福公司」を設立し、代表としてユダヤ系イタリア人アンジェロ・ルザッティ(Angelo Luzzatti)を推薦するというものだ。

李鴻章をイギリス系秘密結社に紹介したのは、太平天国の乱で常勝軍と呼ばれる外人部隊にいた米国人ウォード(Frederick Townsend Ward)であったという。当時の李鴻章は曽国藩と協力して淮軍を組織し、ウォードやゴードンが率いる常勝軍の力を借りて太平天国を鎮圧した。

その後も李鴻章は自らの率いる軍隊の武装近代化のためにイギリス系秘密結社からの借款を仰ぎ、その軍事力を背景に政治における影響力を高めていった。李鴻章はその見返りとして中国での鉄道・港湾・炭鉱などの利権を、ロスチャイルドのシンジケートに売り渡していたのである。

こうして見ると李鴻章と伊藤博文が下関条約を結んだ背景には、イギリス系秘密結社の中国代表から日本代表への利権引き渡しという側面があったことが見えてくるのである。

野崎晃市(42)

中国の4Kテレビ

爆風テレビ
購入したのと同型の液晶4Kテレビ

中国の家で使用していた10年前に購入のブラウン管テレビが壊れたので、新しい液晶テレビを購入することにした。数年前に比べると液晶テレビの値段がずい分と安価になっており、しかもテレビ放送の方式まで相当に変化していたので今更ながら驚いてしまった。

購入したのは45インチのシャープ製液晶を使った4Kテレビで、値段は日本円で3万円程度と驚くほど安価だ。アンドロイドOSが搭載されたスマート・テレビで、アプリを入れればテレビ放送だけでなくゲームやカラオケも楽しめる。

以前のテレビはケーブル・テレビと契約して、月当たり日本円で1000円くらいの放送料金を支払っていた。今は光インターネットを通じてほとんどのテレビ放送がストリーミングで流れているので、光インターネットに加入していればテレビ放送が無料で見られるようになっている。

ここ数年の光インターネットの普及により、ケーブルテレビは既に過去の遺物となったようだ。いつの間にか光インターネットを通じたストリーミング放送やオンデマンドで映画が配信されるスマート・テレビが主流になっていた。

オンデマンド映画は基本有料で、日本でいえばhulu,Gyao,Netflixのような動画配信サービスの中国版で爆風・騰迅・愛奇芸といったサ―ビスがある。こうした動画配信サイトが有料配信サービスを始めたため、副作用として映画やテレビ番組の著作権がかなり厳しく取り締まられるようになった。

4K対応の放送はまだチャンネルが少ないが、子供と一緒に動物や海洋生物の紹介番組を4K放送のドキュメンタリーチャンネルで楽しんでいる。さすがにリアルさや色の発色具合が格段に向上されており迫力がすごい。

日本でも来年あたりから4K放送が本格化するようだが、当面はBSやCSで有料となるようだ。中国でも急速にテレビ放送の高解像度化とネット配信化が進んでいるので、中国のほうが早く4Kテレビが普及するかもしれない。

野崎晃市(42)

金正男暗殺の謎

金正男
金正男暗殺の黒幕は本当に金正恩なのか?


マレーシア当局の発表より韓国の報道のほうが早かった?
韓国ではマレーシア当局の発表より早く北朝鮮の金正恩による暗殺と決めつけた報道が行われたが、通常ならば事件を調査しているマレーシア当局からの発表が先になるはずだ。

また日本でも実行犯の二人の女性は口封じに殺されたという報道がなされ、後にマレーシア当局から二人とも逮捕され生存していると発表されて日本の報道が否定されている。

この件について中国の一部報道では、日本や韓国で事件の予定の筋書きが報道関係者に前もって手渡されていたため、フライング報道となったのではないかとの疑惑を呈している。

劇場型と言う点でロシア駐トルコ大使の暗殺に似ている?
今回の暗殺実行犯の女性は非常に目立つ服装で監視カメラを避ける様子もなく、多くの目撃者の前で犯行に及んでいる。しかも、カメラの前で自分の存在をアピールするかのように、胸に大きなロゴマークがあるシャツを着るなど不自然な点が多い。

こうしたカメラの前でなされた劇場型暗殺と言う点で、去年の年末にトルコのアンカラで発生したロシア駐トルコ大使の暗殺を思い起こさせる。まるで映画の1シーンのようにカメラの前で暗殺が実行されたことに、不自然さを感じた人も多かったのではないだろうか。

ロシア大使の暗殺者はCIAと関係があったことが判明しており、ロシアとトルコの関係を悪化させるためにCIAが仕組んだとの疑惑がある。

今回の金正男暗殺も金正男を保護していた中国と北朝鮮との関係を悪化させるため、北朝鮮の犯行と見せかけて真犯人は他にいるのかもしれない。

毒物はリシン?
マレーシアの警察当局は具体的な毒物の名前を公表していないが、現地の新聞ではリシンかフグの毒を精製したものではないかとの推測が報道されている。

リシンはトウゴマという植物の種から精製される毒だが、サリンよりも猛毒とされ1.78ミリグラムで致死量に達するという。リシンを使用した暗殺や暗殺未遂はこれまでもアメリカや日本で発生している。

なぜ金正男がこのタイミングで暗殺されたのか、真の黒幕は一体だれなのか、事件の謎は深まるばかりである。

野崎晃市(42)

孔子伝(40):孔子の葬儀と門徒たち

子貢
子貢が孔子の墓守をした場所

孔子の葬儀は孔子の遺訓に従って、簡素ながらも厳粛にとり行われた。門徒たちは親の死を悼むかのように、大きな影響を与えた教育者の死を悲しんだ。魯国の君主であった哀公も弔問に訪れ、次のような感想を述べた。

「天は無情にも孔子を留めおかず、私だけが残された。そのため余は憂いている。ああ、なんと悲しいことだ。孔子が世を去ってというもの、私を律するものがいなくなった。」

孔子の棺を載せた車は当時の周で一般的な方式で修飾がなされ、夏と殷の礼節に従って三角の旗を挙げ、旗の竿の上には長さ八尺の細長い布を取り付け、古めかしく荘厳な雰囲気で執り行われた。

孔子の棺は魯城の北の墓地に埋葬されたが、そこは孔子の息子の孔鯉が埋葬された場所の近くであった。孔子は生前に何かを副葬品として埋めることに反対していたので副葬品は何も入れられなかった。

葬儀の後に門徒たちは三年喪に服し、墓の周囲に松や柏や各種の木を植え彼らの追悼の意を表した。三年の喪が明けると人々は別れを告げてそれぞれ去って行った。子貢だけは墓のそばに小屋を作ってさらに続けて三年喪に服した。

司馬遷は漢の武帝の時代に孔子の遺跡を尋ねて歩き回り、そこで聞いた伝承を「孔子世家」と題して書き残し次のように評価している。

「天下には君王や賢人が数多くいたが、生きている間は栄華を極めても、死ねばそれまでの者が多い。孔子はただの平民であったが、十数世代も教えが伝えられ学者の祖として尊敬されている。孔子が天子や王侯から一般人にまで教育を施したことは、至聖と評するにふさわしい功績である。」

司馬遷の論評は孔子が世を去ってから三百年経た後に書かれたが、現代でもなお当てはまる適切な論評であると思う。

孔子に対する好き嫌いは各自あるだろうが、歴史的に東アジアの道徳倫理や思想に及ぼして来た巨大な影響は誰も否定することはできないだろう。

                                       (完)

野崎晃市(42)

孔子伝(39)孔子の死

孔子の墓
曲阜にある孔子の墓

高齢による衰弱に加えて、息子や門徒の顔回と子路が相次いで死去したことによる心理的なショックがさらに追い打ちをかけたのであろう。孔子は病の床に臥すことが多くなり、ほとんど起き上がれなくなった。

魯国の始祖で周王朝建国の最大功労者である周公旦も、若い頃はよく夢に現れて孔子に道を示したものだったが、最近は周公旦の夢を見ることがなくなった。孔子は生命の終わりが近付いて来たことを感じざるを得なかった。

ある朝に孔子は杖をついて門の外に出て、下のような歌を朗詠した。

泰山は崩れるだろうか。
梁の木は壊れるだろか。
哲人は萎えるだろうか。
 
子貢が見舞いに来て孔子が悲しげに歌を朗詠しているのを発見し、急いで孔子の身体を支えて部屋に入れた。

子貢「泰山が崩れたら、私たちは何を仰ぎ見るのですか。梁の木が壊れたら、私たちは何を支えとするのですか。哲人が衰弱したら、誰に学ぶのですか。先生の病気はそんなにひどいのですか?」

孔子「私はもともと殷人であるからであろう、昨晩の夢の中で自分が東西の柱の間に座っているのを見た。おそらく私は間もなく死ぬのだ。そうしたら私の棺を夢で見たように安置してくれ。」

この日より孔子は寝たきりになり、紀元前479年に享年七十三歳で眠るように息を引き取った。孔子は世を去る前に、寝床に臥せたまま書物を読んでいた。孔子が息を引き取っているのを発見された時、彼の傍らには前の日に読んでいた竹簡が広げられたまま落ちていた。

野崎晃市(42)

孔子伝(38):子路(しろ)の死

子路墓
河南省濮陽にある子路の墓

子路は魯に帰還した後しばらくは季孫氏の下で仕官していたが、紀元前481年に衛国の執政大夫の孔悝(こうかい)の部下として仕えた。そのころ衛国では出公とその父蒯聵(かいがい)による王位争奪戦が再燃していた。

孔悝の母である孔姫(こうき)は蒯聵の姉にあたり、蒯聵は孔姫の内応により前480年に数名の戦士を率いて孔悝宅に侵入し、孔悝を脅迫して自分を君主とするように迫った。

子路はこの情報を聞くと友人の子羔(しこう)が止めるのも聞かずに、一人で主人の邸宅に駆け付けて蒯聵が孔悝を脅したことを責めた。当時、蒯聵と孔悝は同盟を結ぶ儀式を終えて儀式の台の上にいたが、子路は蒯聵に孔悝を釈放するよう迫った。

そこへ蒯聵の部下二人が子路に剣で切りかかった。子路は死ぬに当たり切られた冠の紐を結びなおして、「君子は死すとも冠は落とさず」と最後の気迫を示した。子路の行動はあまりにも衝動的であったが、主人を守るため危険を顧みずに飛び込むという子路らしい死に方であった。

子路の死により孔子はまた一人最も親密な門徒であり友人を失うことになった。知らせを聞いた孔子は大変に悲しみ、中庭での祭祀の最中であったがその場で泣き伏せてしまった。

孔子が子路の最後の状況について聞くと、目撃者は子路が死後に切り刻まれて肉の塩漬けにされたと語った。孔子は大変にショックを受けて、食卓にあった肉を捨てるように命じ「どうして口にすることができるだろうか」と述べた。

孔子はもう何も食べる気がなくなってしまい、自己の寿命ももう長くはないと感じるようになった。子路の葬儀に訪れた客が帰ると、孔子は門徒たちに支えられ寝床に横たわり、そのまま目が眩んで立ち上がれなくなってしまった。

野崎晃市(42)

孔子伝(37):原壌(げんじょう)を杖で叩く

原壌
原壌(げんじょう)を杖で叩く孔子

原壌は魯国で孔子と共に育った幼友達だったが、彼は粗野で礼節に無頓着であった。しかし、孔子と原壌はいわゆる腐れ縁で、老人になってからもなぜか行き来があった。

原壌の母親が死んだ際に彼は貧しくて葬儀を出す金もなかったので、孔子が葬儀を出してやり棺桶の作成を手伝った。しかし、原壌は棺桶を叩きながら、やおら葬儀には場違いな恋愛の歌を歌い始めた。その歌とは「狸の首はしま模様で、女の手を握ると巻きついてくる」というものであった。

この歌の内容からすると、その当時に流行していた恋人を口説く恋愛歌のようである。歌の最初の句は相手の顔の刺青模様を形容したものであろう。上の歌を解釈すれば、「あなたの顔は狸の顔のような模様で、あなたの手を握ると柔らかい」というような意味である。

葬儀の際にこのような恋愛歌を歌うのは礼儀に反しているので、門徒たちは孔子に彼の葬儀を手伝うのはやめてはどうかと忠告した。しかし孔子はそれに対して、「親戚はやはり親戚だし、幼馴染はやはり幼馴染だ」と葬儀を最後まで執り行った。

孔子が晩年に魯に帰還してからも、二人の腐れ縁は続いていたようだ。ある時に孔子が原壌を訪ねると、彼は家で地べたに座り込み両足を門の方に広げていた。

孔子は彼の行儀の悪い態度を見て「お前は若い時から礼儀のないやつで、大人になっても役立たずで、年をとってもなかなか死なないごくつぶしだ」と罵りながら、手に持った杖で彼の脚を打ったという。

野崎晃市(42)

孔子伝(36):七十にして心の欲する所に従へども矩(のり)を踰(こ)えず

知者は惑わず
知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず

孔子は七十歳になって内心の欲求と外在の道徳とが一致するようになったことを、「七十にして心の欲する所に従へども矩を踰えず」と表現した。カントが「天上の星の輝きと我が心の内なる道徳律」と語ったのと同じような意味であろう。

人間の心に利己的な欲求が残っていれば、それを律するために外部の道徳や法律による制限が必要となる。しかし、利己的な欲求が無くなり人の内在の要求と外部の道徳や法律が一致する境地にまで至れば、天の道と人の歩みは混然一体となるのである。

孔子は天下を己の任とする君子は、仁・知・勇を兼ね備えていなければならないと考えた。君子の三つの道は「仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず」であった。

孔子の「仁」とは親子間の愛情を基本的な意味とし、それを拡張して広範な人間関係と政治の領域にまで高めた普遍的な概念である。『論語』の中だけでも仁に言及した部分は百箇所以上に及んでおり、仁が孔子と門徒たちの話題の中心の一つであったことが分かる。

「孝悌はそれ仁の本為るか」
(父母兄弟に孝順であること、それが仁をなすことの根本である。)

「それ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。よく近く取りて譬ふ、仁の道というべきのみ」
(仁者は自分が独立しようと志せば他人の独立も助けるものであり、自分が目的を達成しようと思えば他人が目的を達成するのを助けるものだ。常に他者を自分のように考える。それが仁者というものだ。)

「己に克ちて礼に復するを仁となす」
(利己を抑え礼に復帰することが仁である。)

知とは物事に通じ理解する能力であり、仁を社会で効果的に運用するには知が必要である。孔子は「仁を好みて、学を好まざれば、其の弊や愚」と述べている。良い人だけれども愚鈍なデクノボウに終わらないためには、仁は知によって補完される必要があった。

勇とは理想を実行するために、畏れず大胆に行動する力である。「仁者は必ず勇有り」とあるように、勇は仁と結合されていなければならない。勇気をもって前に進んでこそ、仁は不仁との闘争の中で理想を実現できるのである。

孔子は門弟たちにも、仁・知・勇を兼ね備えた人間となるよう励ました。この共通の理想が孔子と門徒たちを結び付け、たとえ理想が完全には実現できなくても、彼らの努力は怠ることがなかったのである。

野崎晃市(42)

孔子伝(35):顔回(がんかい)の死

陋巷
顔回が住んでいた陋巷


顔回は学問を好み一を聞いて十を悟るような聡明な人物で、孔子からは実の息子のように可愛がられていた門徒だった。顔回は陋巷と呼ばれる貧民街で質素な暮らしに満足し、孔子に従って修行と学問を続けた。

顔回は仕官や商売もせずに、修行僧のようなストイックさで徳のある生き方を追求した。孔子は顔回に「仕官の機会があれば積極的に仕事に取組み、仕官の機会がなければ隠居すればいいだけだ。これができるのは私とあなただけだ」と述べた。

顔回は経済的に恵まれず苦労が多かったのであろう、二十九歳の時にはもうすっかり白髪頭になっていた。顔回が四十一歳で早死にすると、孔子は最も優秀な継承者を失ったと失望の色を隠さなかった。

顔回の死に孔子は「ああ、天が私を滅ぼそうとしているのだ、天が私を滅ぼそうとしているのだ」と慟哭した。従者が「あなたも慟哭するのですね」と聞くと、孔子は「私としたことが慟哭して泣いていたか。彼のために慟哭するのでなければだれのために慟哭するのだ」と答えた。

顔回の父親である顔路は孔子に馬車を売って、「椁」と呼ばれる二重の棺を用意してほしいと希望した。しかし孔子は失ったばかりの自分の実子の孔鯉の葬儀でも簡素な棺しか用意しなかったことを思い出した。そのため孔子は高価な棺を用意することに同意しなかった。

しかし門徒たちが金を出し合って、手厚く顔回を葬った。孔子は「顔回は私を父親のように慕ってくれたのに、私は父親らしいことをしてやれなかった。このように手厚く葬ったのも私ではなく、あなたの同学の人たちだった」と更に心を痛めた。

孔子の弟子には子貢のような商売に才能を発揮して裕福な門徒もいたが、顔回のように徳を追求して清貧を貫く門徒もいた。そして孔子が評価したのは無位無官で財産を持たずとも、徳や仁を追求して止まない顔回のような人物であった。

現代人は人物を何かと経済的成功や社会的地位で評価しがちだが、孔子の人物評価の基準は経済第一主義の現代人にも警鐘となっているだろう。

野崎晃市(42)

孔子伝(34):門徒三千、高弟七十二人

孔子と弟子たち
孔子と門徒たち

孔子は晩年に仕官の望みが無くなると、文献の研究に集中するようになった。彼が整理した『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』などを、後世の人たちは「六経」あるいは「六芸」と呼んだ。

孔子が諸侯を遊説して回った結果、各地から多くの門徒が彼の門下に集まってきた。伝えられるところでは孔子の門徒は三千人で六芸に通じた高弟が七十余人、その大部分は孔子が魯に帰還する前後に門徒となったものであった。

孔子は各自の才能に応じて教育を施し人材の育成に力を注いだ。孔子は多くの優秀な学者と大勢の政治・軍事・外交に長じた人材を生みだした。孔子は品行と専門に応じて門徒を四つの得意分野に分類しているが、各自の代表的な人物は以下の通りである。

徳行:顔淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。
弁舌:宰我、子貢。
政治:冉有、季路。
文学:子游、子夏。

孔子は自分の後継者たちが政治で仁と義を重んじるよう希望し、眼前の小さな利益にこだわって遠大な目標を犠牲にすることがないよう諭した。その点を子夏に「あなたは君子の儒者となるべきで、小人の儒者となるべきではない」と注意した。

孔子に言わせれば、儒者にも君子と小人との区別があった。儒者は社会に有益で高尚な品格を目標とすべきであり、卑小なことにこだわって役に立たない犬儒となるべきではない。

しかし、孔子は門徒たちに希望に満ちた将来を見ることができた。それで「後生畏るべし、いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや」(若者の潜在能力は恐ろしいものだ。どうして今の我々の水準に及ばないなどと言えるだろうか。)と述べた。

野崎晃市(42)

孔子伝(33):十四年ぶりに故郷の魯国に帰還する

冉求の墓.
山東省棗荘市にある冉求の墓

孔子が衛国に戻ってしばらく後に、門徒の冉求(ぜんきゅう)が魯国で仕官することとなった。紀元前484年に斉国の軍が魯を攻撃したため、冉求は季康子の軍を引きいて斉国と城の校外で戦った。冉求は長矛で武装した兵を率いて斉軍を攻撃し、戦に勝利を得ることができた。

戦闘が終わって季康子は冉求を賞賛して、このような軍事的戦略をどこで学んだのかと尋ねた。冉求は孔子から学んだと答えた。季氏がさらに尋ねて孔子は一体どのような人物かと尋ねると、冉求はこの機会に孔子を賞賛して述べた。

「孔子を重用すればかならず名声が上がり、民を益することができます。鬼神でさえ悪事をしないようになるでしょう。しかし孔子に軍事的知識を期待してはなりません。たとえ多くの報酬を約束しても、孔子は仕官しないでしょう。」

冉求の推薦の言葉を聞いて、季康子(きこうし)はまもなく人を派遣して孔子を招聘することにした。孔子は戸惑うことなく門徒を引き連れて使節の人々と魯国に戻り、十四年の長きに渡る異国での流亡生活に別れを告げた。

孔子の一行は魯国に戻り、門徒たちや魯国の君臣の歓迎を受けた。孔子のもとに親戚や友人また朝野の人士がひっきりなしに挨拶に訪れた。ちょうど魯国は斉国に戦で勝利したばかりであったため、城内は一種のお祝いの雰囲気に溢れていた。

魯国に帰還した時に孔子は68歳になっていたが、教育と典籍の整理に力を注ぎ官職に就くことはなかった。しかし、魯の君臣や門徒たちは孔子にしばしば政治に関する意見を求めた。魯国は孔子を国老として敬い、退職した卿大夫に準じて待遇した。

野崎晃市(42)

孔子伝(32):衛国に再び戻る

衛庄公
衛国の荘公蒯聵の遺跡

孔子が衛国の都の帝丘に入ると、一種の平和と安定を享受している雰囲気を感じ取った。懐かしい土地に再び足を踏み入れ、孔子は衛国の霊公のことを思い出した。衛国では霊公の亡き後に親子で君主の地位を巡って争いが生じたが、国内の情況は次第に落ち着きを取り戻していた。

孔子が衛国の政治について子路と討論した際に、孔子は「名を正す」必要について力説した。「君は君らしく、臣は臣らしく、父は父らしく、子は子らしく」それぞれの身分をわきまえるということであった。

これは親子での権力争いが続いていた衛国から言えば、たいへんに敏感な問題でもあった。衛国の出公(しゅっこう)と敵対していたのは、晋国に亡命していた親の蒯聵(かいがい)であったからである。

孔子は「名を正す」という理論で衛国の争いを調停しようとしたが、とうてい衛国の朝廷に用いられるはずもなかった。それゆえ、衛国の出公も執政の孔圉(こうぎょ)も孔子の訪問に歓迎を表明し賢者に対する礼をもって待遇したものの、結局のところ重用されることはなかった。

孔子は衛国で用いられそうにないとわかると、主に文化や学術研究に力を入れることにした。孔子は伝統文化の保護を使命とし、自己の晩年に詩・書・礼・楽その他の書物を執筆して、それらを後の世に残す事を決意した。

この時期の学術的著作と研究により、孔子が魯国に戻った時にはすぐに「六芸」の全面的な整理と完成を見ることができたのである。こうして、孔子と門徒は衛国の宮廷や民間における詩や礼儀の研究に従事した。

野崎晃市(42)
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