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飯山一郎の白蛇様
『文殊菩薩』  What?  Photo 末世の争乱近し.英雄出ず.ひたすら健康延命図るべし.

※ 一日一食は聖者の食事。一日二食は人間の食事。一日三食は動物の食事。 記 事    

始皇帝と法家とユダヤ

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始皇帝はユダヤ系?

始皇帝は儒家を焚書坑儒で弾圧したが、韓非子や李斯のような法家を重用したのはなぜかとずっと疑問に思っていた。

帝国の統一と権力集中に、法律の整備が必要だったという実用的な理由の他に、何か思想的背景を感じたのである。

秦を滅ぼして漢王朝を打ち立てた劉邦は、秦の細かな法律を嫌って法匪と呼んだが、どこか異質さを感じたためであろう。

もし、始皇帝の後見人で宰相だった呂不韋がユダヤ系だったならば、これはあるいはユダヤ的な思想の影響かもしれない。

ユダヤ人はモーセの十戒をはじめとする律法の遵守を重んじ、律法学者であるラビたちは事細かな規則を作り上げた。

ユダヤ人は、誰でも規則通りに行動すれば、どこでも同じ生活様式になるという、今でいうマニュアル化が大好きなのだ。

一方で、儒家は倫理的な価値や、家父長的な秩序を重んじるため、法律の地位は相対的であり、より中国らしい。

野崎晃市(48)

始皇帝の背後にユダヤ商人

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始皇帝はユダヤの血統?

中国を最初に統一した秦の始皇帝だが、本当の父親は呂不韋だったという説があり、呂不韋はユダヤ系の商人だったらしい。

呂不韋は自分の子供を腹に宿した妾を、後に秦の王となる男に嫁がせて、その子が王位を継ぐと秦の宰相となり実権を握った。

呂不韋は商売上手で大金持ちだったが、その財力をもって宮廷に入り込み、国を陰から支配する手段はユダヤらしいやり方だ。

呂不韋を中国語で発音するとレヴィに近い発音となるが、ユダヤ系のレヴィ族の出身であったとの説を読み、なるほどと納得した。

確かに、秦の兵馬俑のリアルな描写を見ると、中国の伝統的な芸術性とはかけ離れており、ギリシャ彫刻あたりの影響を感じる。

秦朝滅亡後、日本に亡命した渡来人の中に秦氏がいるが、秦氏はユダヤ的な習慣を持ち込み、日本神道にも影響を与えた。


野崎晃市(48)

お神輿はエジプト起源


日本を訪れて、祭りでお神輿を見たユダヤ人が、旧約聖書の契約の箱にそっくりだと感嘆したという話がある。

さらに、京都の祇園祭の山鉾には、旧約聖書をモチーフとした絵柄が書かれており、両者の類似点は多くある。

ところが、この旧約聖書の契約の箱もモーセの創作ではなく、古代エジプトの祭りで使われた神輿のパクリなのだ。

11月26日に、エジプトでルクソール神殿からカルナック神殿へ、神輿を担いで移動するパレードが再現された。

再現されたものは、船に神輿が乗った形をしており、ナイル川の氾濫が治まるように祈る意味があったらしい。

旧約聖書でも、祭司たちが契約の箱を担いで運ぶと、紅海の水が干上がって道ができ、ヨルダン川の水が引いた。

古代エジプトの神輿にも肩で担ぐタイプがあり、モーセはエジプトで行われていた祭りからヒントを得たのだ。

さて、コロナで観光客が少ないこの時期に、なぜ大パレードをするのか不明だが、裏に儀式的意味がありそうだ。


野崎晃市(47)

日本語の起源は中国東北部

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日本語・朝鮮語・蒙古語のルーツ

『ネイチャー』誌に、日本語・韓国語・蒙古語の起源は、中国東北部の西遼河の農耕民族であるとの論文が出た。

論文は、ドイツのマックス・プランク研究所や日本・朝鮮・中国の学者が参加した、国際研究プロジェクトの成果だ。

この研究は、言語学だけではなく考古学や遺伝子による分析などの成果も取り入れられた、学際的な研究である。

この論文の結論は、日本文化の起源の一つが、現在の遼寧省朝陽市のあたりとする、飯山氏の見解と一致している。

朝陽市付近には、約3000年前に殷の遺民である箕子が移住し、朝鮮や日本にも殷の青銅器技術を伝えたと思われる。

さらに、このあたりは三国時代に烏恒鮮卑が都に定め、遼東半島を支配した公孫家と領土を争った場所でもある。

飯山一郎氏は、卑弥呼は公孫家の出身で、倭人伝が『魏志・烏丸鮮卑東夷伝』にあるのはそのためと言っていた。

野崎晃市(47)




禹会村遺跡に見る禹王伝説

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禹会村の遺跡発掘現場

安徽省蚌埠市禹会村から、中国伝説の古代の帝王である禹王が、諸侯を集めて祭祀を行った祭壇などが見つかったらしい。

堯・舜・禹と言えば、中国の古代の帝王であり、中でも禹は洪水を治水によって収めた功績により、王に推戴されたという。

安徽省には一度行ったことがあるが、確かに川や湖が非常に多く、この土地の治水は並大抵ではないなと感じさせられた。

史記などでは、堯・舜・禹が聖王として理想化され、世襲せずに有徳者に王位を禅譲して、後継者争いを防いだとされる。

しかし、戦国時代の墓から見つかった『竹書紀年』によれば、実は彼らの王位交代も、血なまぐさい政変によるものだったようだ。

野崎晃市(46)

「大化の改新」は「玄武門の変」がモデル

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中大兄皇子と中臣鎌足は李世民をモデルとした

今学期から、大学で日中交流史を教えているのだが、「大化の改新」が「玄武門の変」をモデルとしていることに気が付いた。

日本人なら、「大化の改新」なら聞いたことがあるだろうが、「玄武門の変」を知っている人はあまりいないかもしれない。

626年「玄武門の変」は、唐の第二代皇帝となる李世民が、皇太子だった兄の李建成を殺し、父の李淵を幽閉し、政権を奪う事件だ。

その約20年後に、中大兄皇子が宮廷で蘇我入鹿を殺し、母の皇極天皇を退位に追い込み、自ら政権を握る「大化の改新」が起こる。

しかし、中大兄王子と中臣鎌足は、遠く唐で起こった「玄武門の変」について、どうして知っていたのだろうかという疑問が起こる。

ちょうど、遣唐使の南淵請安が608年から唐に留学し、640年に帰国して塾を開き、中臣鎌足と中大兄皇子はそこで学んでいる。

南淵請安ならば、「玄武門の変」を熟知していたはずで、中大兄皇子はそこからヒントを得て、645年「大化の改新」を主導したのだ。

ちなみに、私は小林恵子らが主張する、中大兄皇子が百済王子翹岐で、中臣鎌足も智積か豊璋とかいう百済主導説は取らない。


野崎晃市(46)

モンゴルの伝統文字が復活

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モンゴルの伝統文字で書かれた文書

3月18日、モンゴルで伝統文字復活を促進する法律が発表され、2025年から公文書においては伝統文字を併記することが決まった。

1946年以降、ソ連の衛星国だったモンゴルでは、ロシアのキリル文字を使用した表記がなされ、伝統文字が忘れられてしまった。

ソ連崩壊以後、モンゴルでは伝統文字を復活させようと、伝統文字を学校教育に取り入れたり、書道展が開かれたりしてきた。

しかし、70年近く使用してきたキリル文字から伝統文字への回帰は、人材や資金の制限を受けてなかなか進んでこなかった。

モンゴルは伝統文字の復活により、過去の歴史や伝統と一体化することで、チンギス・ハーン時代の栄光を取り戻したいようだ。

野崎晃市(45)

吉備真備が書いた墓誌銘

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「日本国朝臣備」は吉備真備か

阿倍仲麻呂と同時期に遣唐使として派遣され、17年も中国に留学していた、吉備真備の書いた墓誌銘が中国で見つかった。

この墓誌銘は外交使節を迎える役人の李訓という人物のために書かれたもので、「日本国朝臣備書」と文末に記されている。

吉備真備は中国で張旭という書道の大家に学んでおり、書に優れていたので、中国で世話になった故人のために書いたのだろう。

報道では吉備真備の真筆は日本にも残っていないとあるが、吉備真備の筆と伝えられる写経が上原美術館に所蔵されている。

また、Wikiの情報によると吉備真備による「虫喰切」「南部の焼切」という断片もあるようなので、比較すれば真偽が分かるだろう。

墓碑銘が書かれたのは開元22(734)年だそうだが、国の名前として「日本国」が登場するかなり古い例なのではないだろうか。

ちなみに倭国を日本国と改名したのは、702年ごろ則天武后によるが、百済系の遣唐使であった粟田真人の建言だったようだ。


野崎晃市(45)

百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に決定

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世界遺産に決定した仁徳天皇陵

ちょうど一年前に、仁徳天皇陵や応神天皇陵などを巡ったので、今回の世界遺産決定には感慨深いものがある。

そこで、自分の古墳巡りの体験をもとに、これから始まるであろう観光客向けの環境整備に一言、提言させていただきたい。

まず、最寄りの駅やコンビニやホテルなどで、古墳巡りの地図が無料で手軽に手に入るようにしてもらえると助かる。

すでに、古墳巡りの地図はきちんと準備されていて、市役所に行けばもらえるが、駅の出口や案内所などで配布してくれると便利だ。

また、古墳が大きすぎて歩いて一周するのは疲れるので、移動しながらスポットを案内してくれる人力車などが欲しい。

人力車の古墳一周コースや古墳群ガイドコースなどを設ければ、夏の暑い時期などは有料でも利用する人が少なくないだろう。

さらに、駅前などの商店街に、外国人用に和服を貸し出して写真を撮ったり、和服で接待する料理屋を出すのもいい。

堺のおっさん!世界遺産登録を機に観光客用のサービスを充実させて、ぜひ古墳巡りで町興し頑張ってちょーだいね。


野崎晃市(44)

伽耶の古墳から天体図

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古墳の天井にさそり座といて座

韓国の慶尚南道咸安県にある約1500年前の古墳の天井から、約125の星からなる星座の天体図が発見されたという。

星座の天体図というと、日本でも奈良県の高松塚古墳やキトラ古墳が知られており、関係性が注目されている。

ちょうど古墳の場所も、釜山より1時間ほど郊外に行ったところであり、任那日本府が置かれていた場所に近い。

伽倻時代のものと推定されているようだが、そのころは百済・伽耶・日本が連合して新羅と戦っていたころにあたる。

キトラ古墳の天体図は緯度的に平壌の夜空になるそうだが、百済から伽耶を経て日本に逃げた王族のものかもしれない。

野崎晃市(44)

仁徳天皇陵の発掘調査が始まる

仁徳天皇陵
仁徳天皇陵

宮内庁と堺市による仁徳天皇陵の合同発掘調査が始まると聞いて、今年の7月18日に大阪で古墳巡りしたことを思い出した。

大阪で仁徳天皇陵・仲哀天皇陵・神武天皇陵などを巡ったのは、翌日に鹿児島で故飯山一郎翁から古墳に関する講義を受けるためだった。

ちょうど、今回の仁徳天皇陵の調査は周囲の三重濠を調査するとのことであったが、鹿児島の横瀬古墳にも本来は三重濠があったという。

飯山史観によれば、戦国時代に種子島から堺に鉄砲が渡ったのと同じように、古墳文化もまた鹿児島から堺に渡ったのだそうだ。

また、堺のおっさんによれば、古代の船も瀬戸内海は海賊が出没するので避けて、さんふらわあ号と同じく黒潮に乗って太平洋を北上したのだとか。

ちょうど古墳が昔の海岸線や川から見えるような位置に築造され、水上交通の目印となっていたらしいことも両地の古墳に共通している。

確かに仁徳天皇陵からは、朝鮮半島や中国製と思しき鎧や鏡などが発掘されており、古代より海上交通による往来が頻繁だったことを伺わせる。


野崎晃市(44)

スクモ塚古墳考

スクモ塚古墳
島根県益田市久城町にあるスクモ塚古墳

先月に大阪や鹿児島で飯山翁と古墳巡りをしてから、どうも前方後円墳のことが色々と気にかかって調べている。

というのも、筆者の実家の近くにスクモ塚古墳という5世紀ごろに造営されたとされる前方後円墳があるからなのだ。

筆者は幼い頃によくこの古墳を遊び場としたが、横瀬古墳と同じように海からも川からもそう遠くない場所に位置している。

この古墳には伝説があり、クシロ族と呼ばれる縄文系部族の首長が祭られているとされ、クシロ姫を祭る神社も近くにある。

そのクシロ姫を祭る櫛代賀姫神社が合祀しているのが応神天皇で、ここでも前方後円墳と応神天皇の密接な関係が出現する。

古墳所在地の地名ともなっている久城(クシロ)というのは、北海道の釧路と同じでどうやら川のそばを意味する縄文語らしい。

確かに、クシロ姫が祭られている神社の傍には益田川が流れており、神社の傍の山には川からカニが産卵に集まる。

スクモ塚という名前については、スクモは方言でもみ殻を意味し、古墳がもみ殻を集めて作った塚との伝説から来ているそうだ。

しかし、古アイヌ語で大きなヤマを意味するシクマあるいはセクマから転じてスクモとなった可能性もあるのではなかろうか。

そうすると、クシロにあるスクモ塚とは古アイヌ語で解釈すると、川の近くにある大きな山という意味になりちょうど地形と一致する。

クシロ族は船に乗って瀬戸内海を通じて日本海沿岸のこの地に流れ着いたそうで、横瀬古墳や応神天皇陵との関係に思いを致させる。


野崎晃市(44)

鹿児島の古墳巡り

前方後円墳
鹿児島県の横瀬古墳

昨日、筆者と堺のおっさんが乗ったのは鹿児島県志布志行きフェリーで、新しく5月に運航が始まった新型さつま号だ。

大河ドラマの『西郷どん』のファンのツアー客が増えたそうで、平日にしてはさつま号のフェリーの乗客は多かった。

フェリーは黒潮の流れに逆らって進むため速度が出ず、鹿児島の志布志港に着いたのは1時間遅れの10時ごろだった。

港に到着した我々を出迎えてくれたのは中国青州で共に過ごした小ボンボン氏で、車で飯山翁邸まで連れて行ってくれた。

飯山邸で二年ぶりの再会を喜び、飯山翁が連れて行ってくれたのは志布志にある前方後円墳の横瀬古墳である。

この古墳には熊襲征伐に鹿児島の地を訪れた訪れた仲哀天皇と、その子供とされている応神天皇の秘密が隠されているという。

それは一体どんな秘密なのか?それはまた次回の機会に説明するとしよう。



野崎晃市(43)

東アジアから出土する琵琶形銅剣

琵琶形銅剣の分布図
●は琵琶形銅剣の出土した場所

吉林省博物館に展示されていた琵琶形銅剣は、古代の満州・朝鮮・日本に共通して出土する特徴的な形の銅剣である。

琵琶形銅剣は中央が茎で剣身が葉のように広がる琵琶に似た形を有し、遼寧省で多く出土するため遼寧式銅剣とも呼ばれる。

分布は古朝鮮の勢力範囲と重なるとも言われており、朝鮮忠清南道扶余郡松菊里遺跡や福岡県今川遺跡などからも発見されている。

青銅器に含まれる鉛同位体の分析からは、遼寧省の錦西鉱山から採掘される銅が材料との説が有力だ。

制作された年代は箕子朝鮮から戦国時代の燕国の時代に当たり、はるか古代より同地域での交流があったことを物語っている。


野崎晃市(43)

新しい吉林省博物館を訪れる

吉林省博物館
2016年に新しくオープンした吉林省博物館

今日は、家族で長春郊外の長影世紀城近くに新しくオープンした吉林省博物館に出かけた。

歴史博物館と科学博物館が一体となった巨大な建物で、一日では見きれないほど広いスペースがあり、展示物も豊富で充実している。

今日は休日とあって家族連れが多く、子供のための科学教室や体験コーナーなどもあって賑わっていた。

今回は特別展示されている吉林省考古学成果展を中心に、高句麗・扶余・渤海などの遺跡出土品などを重点的に見た。

古代の満州地域から朝鮮半島を経由して日本にまで伝わった文化のルーツを辿るためである。

ちょうど展示物の中に古代の日本・朝鮮・満州地域の交流を証明する出土品を見つけたのだが、それは次の機会にでも紹介したい。


野崎晃市(43)

電話帳のような厚さの百済・高句麗年表

百済歴史編年
姜維公編『百済・高句麗歴史編年』

今日、大連民族大学の研究室に送られてきたのは、長春師範大学の姜維公教授の編集した『百済・高句麗歴史編年』だ。

姜維公教授は古代の朝鮮族の歴史を研究している専門家で、中国の東北工程と呼ばれる歴史研究プロジェクトにも参加している。

姜維公教授は百済は吉林省吉林市周辺が起源で後に朝鮮半島方面に南下したとして、韓国の歴史家たちと論争を引き起こした。

姜維公教授によれば百済の語源は勿吉や沃沮などと同じ音MoJiから来ており、起源は扶余王の尉仇台にまでさかのぼるのだという。

年表では、既に散逸した『百済記』など古代の百済史書から記事を引用している『日本書紀』などの日本の文献も参考にされている。

百済・高句麗の位置を巡る歴史論争がヒートアップするのは、それが現在の朝鮮半島の支配権や領土問題にも影響を与えるからだ。

倭人の正体を探るために百済・高句麗年表にこれから当たることになるが、まずは電話帳のような本の厚さに驚いているところだ。



野崎晃市(43)

大連民族大学で倭人の研究

大連民族大学
古代倭人の研究拠点となる大連民族大学

本日は遼東半島での倭人の痕跡を探す研究のため、大連民族大学の専門家と打ち合わせを行った。

大連民族大学は少数民族の研究と教育に特化した大学で、我々が古代倭人との関係を推測している卑沙城遺跡のすぐ近くにある大学だ。

そこの専門家によれば、卑沙城は高句麗によって建設されたが唐の李世民の高句麗征伐で滅ぼされたという。

その高句麗征伐から続く流れで、唐は白村江で百済と倭の連合軍と戦っており、当時の倭人との関係も当然に考えられるとのこと。

しかし、我々は倭人と遼東半島はもっと強い繋がりがあったと推測しており、その証拠を探す現地調査を共同で行うことになった。

さっそく来月から、大連の現地に飛んで卑沙山遺跡を中心とした古代倭人の痕跡を求める調査を本格的に始める予定だ。

野崎晃市(43)

三国志の武将の墓から発掘されたゲタ

木の下駄
発掘された漆塗りの木製のゲタ

1984年に、安徽省の馬鞍山から三国志の時代に呉の孫権に仕えた将軍である朱然の墓が発掘された。

朱然は呂蒙と共に蜀の関羽を捕らえて死に追いやった将軍であり、呉でも勇猛な将軍として知られている。

その墓から中国でも最古の漆塗りの木のゲタが見つかり、日本文化の源流ではないかと憶測を集めている。

今でも和服の事を呉服と呼ぶが、日本の和服とゲタは三国志時代の呉から伝わった可能性が出てきたのだ。

ここで思い出したのは、『後漢書』が倭について会稽・東冶の東で習俗が似ていると記していることだ。

会稽・東冶は今の浙江・福建に当たる地域にあるが、孫権が会稽太守だったようにこの周辺地域は呉の領地だった。

また遼東の公孫淵は呉の孫権と同盟を結んだが、遼東と呉の間は海の民である倭人が船で往来していた可能性もある。

当時の記述や考古学の発見をパズルのピースのように集めると、古代の倭人の正体が朧げに見えてきそうだ。

野崎晃市(43)

長門の楊貴妃伝説

楊貴妃の墓
長門市にある楊貴妃の墓

山口県長門市の海岸に突き出た半島には楊貴妃の墓があり、中国より楊貴妃が亡命してきたとの伝説が残っている。

唐の玄宗皇帝に中国一の美女として皇帝の寵愛を受けた楊貴妃だが、正史では若くして殺されたことになっている。

安禄山の反乱により長安が攻め込まれ、皇帝と妃たちが四川に逃げる途中で、皇帝を守る兵士たちが楊貴妃殺害を要求したためだ。

兵士たちは、皇帝を政治から遠ざけて安禄山を反乱に追い込んだのは楊貴妃が原因だと主張し、彼女の殺害を要求したのである。

皇帝は兵士たちをなだめる為に、愛してやまない楊貴妃の殺害をやむなく許可したのであった。

ところが、長門市には楊貴妃が替え玉を使って死を逃れ、秘かに日本に亡命したという伝説があり、彼女の墓まで立てられているのだ。

なんと、唐の高級官僚となっていた遣唐使の阿倍仲麻呂が、秘かに楊貴妃を匿って日本に亡命させたというのである。

ちなみに、阿倍仲麻呂と安倍晋三には直接の血縁関係はないが、祖先をたどれば阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)に行きつくという説もある。


野崎晃市(42)

安倍晋三と長州藩人脈

萩の城下町
萩の城下町の川にかかる橋の上で

『放知技』では飯山翁が安倍晋三のルーツとして、長州藩出身の首相たちとの関係を明らかにする連載をしている(記 事)。

長州藩出身の首相の一人として田中義一が挙げられていたが、ちょうど私は去年に故郷に帰った折に田中義一の旧宅を萩に訪れているのだ。

私の故郷の島根県益田市には萩・石見空港があり、車で1時間ほど海岸沿いに走れば萩市に到着する。

ちょうど萩ではハッサク祭りが開催されており、ハッサク食べ放題を目当てに行った会場が田中義一の旧宅だった。

田中義一旧宅のすぐ後ろには川があり、家のすぐ裏から船で海に出る事が出来るようになっている。

萩市は船で荷物や人の移動ができるよう運河や川が巡らされており、密貿易が盛んだったことを伺わせる町の作りだ。

さらに、飯山翁によれば安倍首相がプーチンを接待した隣町の長門にも、安倍首相の出自の秘密が隠されているという。

萩の隣の長門も私の故郷の益田市と関係の深い場所で、この周辺を治めていたのが柿本人麻呂の子孫を自称する益田氏だ。

益田氏は毛利氏の家来で元は益田市周辺の豪族だったが、関ヶ原以後に領地を削られた毛利氏に従って萩の隣に位置する須佐に移動し長州藩の永代家老となった。

益田氏が治めた須佐は名前からわかるようにスサノオと関係が深いし、長門には楊貴妃の墓もあって古来より中国や朝鮮からの渡来人が多い場所だ。

飯山翁の明治維新の真相を探る連載は、鹿島昇や落合莞爾の洞察史観をさらに超えて日本建国の謎まで解き明かしてくれそうだ。


野崎晃市(42)
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