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飯山一郎の白蛇様
『文殊菩薩』  What?  Photo 末世の争乱近し.英雄出ず.ひたすら健康延命図るべし.

※ 一日一食は聖者の食事。一日二食は人間の食事。一日三食は動物の食事。 記 事    

孔子伝(25):美女の南子(なんし)と会見する

南子
映画「孔子」で南子を演じる周迅

南子(なんし)はもともと宋国の姫で、衛国の君主の霊公に嫁いでからも宋国の貴族との不倫が噂されていた。しかしこの女性は若くて美貌であったので、深く霊公の寵愛を受け衛国の朝廷で政治に干渉することさえあった。

彼女は孔子の名望をかねてより慕っており、この聖人と話してみたいと思っていた。そこで彼女は人を孔子の下に遣わして面会を申し出た。

「四方から来た貴賓は、私たちの国の君主に会見したいと思うなら、先に必ず私のところに挨拶にきます。私も一度お会いしてみたいと思っておりました。」

南子は孔子がとても礼儀にうるさい人間であると聞いて、会見の際にわざわざ玉石を身に付け衣服にも気を配り、薄いカーテンに遮られた部屋の中で待ち受けていた。

カーテンに遮られてはっきりと美貌を見ることはできず、ただ彼女が答礼をするさいに身に着けている玉器が音を立てるのが聞こえた。

会見が終わって、孔子が門徒たちに南子が示した礼儀の正しさを賞賛した。子路はそれに反論して、あのような妖艶な女性に会いに行くのは評判を悪くすると述べた。

この子路の態度を見て、孔子は誤解されたのではないかと不安になった。そこで天を指して誓って言った。「もし私にやましい事があるならば、天が私を棄てるだろう。天が私を棄てるだろう。」

この孔子と南子との会見は無駄ではなかった。その後に孔子の門徒の幾人かは才能を認められて衛で仕官先を見つけることができた。例えば、高柴は刑罰などを執行する司法官である士師に、子路は蒲邑の宰に任じられた。

しかし数カ月後に霊公と南子が馬車で城内を巡った時のことである。孔子は二台目の馬車に乗るよう指示され、彼らと共に市内を巡らされた。孔子は「私は徳を美女より熱心に追及する人を見たことがない」と落胆の言葉を残した。

南子のその後であるが、霊公の別の夫人の子蒯聵(かいがい)が南子の不倫をとがめて暗殺未遂を起こし、霊公に国外追放される。しかし霊公の死後に跡継ぎ争いを経て蒯聵が荘公として即位すると、南子は淫婦として即座に殺され悲惨な最期を遂げる。

美しいバラには刺があるように、妖艶な美女に身を誤らないようご用心のほどを。

野崎晃市(42)

孔子伝(24):蒲(ほ)で反乱兵に囲まれる

孔子遺跡
河南省長垣県(旧名:蒲)で孔子を記念する像

孔子らは匡で保釈された後に陳国へ向かう道を急いだが、またも途中で蒲(ほ)の人々に行く手を遮ぎられた。衛国の公孫戌(こうそんじゅ)は霊公に放逐された後、この町に逃れて反乱を策動していたからである。彼は孔子を脅迫してこの反乱に加わらせ、自己の勢力を拡大しようと考えた。

孔子の門徒たちは蒲の兵と小競り合いを始め、双方はしばらく剣を手ににらみ合いが続いた。蒲人は孔子たちが意にならないのを見て留めおくことを諦め、交換条件を持ち出してきた。条件は衛国の帝丘に戻らないことを誓うなら、孔子たちを解放するというものであった。

孔子はその条件に同意して、双方が誓いを立てた。しかし、蒲の町を離れると孔子はすぐに馬車の方向を変えて帝丘へ戻るよう命じた。子貢は不思議に思って尋ねた。

子貢「先ほど誓いを立てたはずですが、すぐに破るのですか?」
孔子「あれは脅迫されて立てた誓いだ。誓約の神も気にはすまい」

衛の霊公は孔子が帰ってくるという消息を聞いて喜び、自ら城外にまで迎えに出かけた。孔子一行が蒲で示した態度が、孔子が公孫戌と反乱を企てているという疑いを晴らしたからであった。

霊公は孔子を見ると、蒲邑を討伐するべきかどうか尋ねた。孔子は討伐するべきだと答えた。霊公は孔子の意見はもっともだと感じたが、それでも蒲を討伐する決心を下すことができなかった。

公叔戌が蒲に立てこもって衛に反乱していた期間は長くはなかった。情況が不利なのを見て、公叔戌は前496年に魯国へ亡命したからである。数年後に、この蒲の町は孔子の弟子の子路が治める町となる。

孔子と門徒たちは匡と蒲で二度の災難を経験し、しばらく衛国に滞在した方が安全であると思いなおした。衛国で生活をするため、大夫の蘧伯玉(きょはくぎょく)に仕事の斡旋を頼んだ。

そこへ霊公夫人の南子から孔子に会いたいとの希望が伝えられた。南子は美しい妖艶な女性として知られており、孔子とこの美女の会見は様々な憶測を呼んだ。

野崎晃市(42)

孔子伝 (23): 匡(きょう)で監禁される

匡 (2)
河南省長垣県の匡城遺跡


衛国から出発する際に、公良孺(こうりょうじゅ)という名前の貴族出身の青年も孔子に従うことになった。公良孺は陳国の出身で、孔子の一行は彼の案内で陳国に行こうと考えていた。

しかし、孔子の一行が匡(きょう)という町を過ぎる時に、大きな災難が孔子の一行を待ち受けていた。匡は衛国の帝丘から西南に百二十余里の場所に位置し、以前に陽虎が軍を率いて侵略したため人々は陽虎を大変に憎んでいた。

ところが孔子たちの馬車を御していた従者の顔刻(がんこく)が、以前に陽虎の軍に参加して匡を攻撃した時のことを語り始めた。顔刻(がんこく)に悪気はなかったのだが、これが匡の住人を刺激するとまでは思いが至らなかったのであろう。

顔刻の話が匡の支配者の耳に入ると、彼らは直ちに兵を率いて孔子と門徒たちを追ってきた。孔子の一行は陽虎の仲間と勘違いされてしまったのである。

孔子一行は拘禁されていた期間に何度も尋問を受けた。子路は憤懣やるかたなく、暴れて脱獄しようかと考えていた。孔子は獄舎で琴を演奏し始め、子路を制止して門徒たちに問いかけた。

「周の文王が世を去った後、その文化の伝承が我々の身に与えられた使命だったのではないか。もし天が見棄てようとしているのならば、私が学ぶ事もできなかっただろう。もし天が見棄てていないのであれば、匡人ごときが何をできるというのか。」

孔子が文化の伝承者としての使命を語ると、門徒たちもこの使命感に鼓舞される思いがした。

「子路が歌を歌いなさい。私が琴を伴奏しよう。」

子路が歌い始めると門徒たちも一緒に歌い始め、彼らの歌声は周囲に響き渡った。看守も様子を身に来て、いくらか緊張が解けている様子であった。

孔子たちは拘禁されてから数日後に疑いが晴れて、ようやく釈放された。孔子の一行は保釈されると、陳国へ向かう道を急いだ。

野崎晃市(42)

孔子伝(22):衛国での孔子

衛国
濮陽の衛国城遺跡

衛国は周公旦の弟の康叔(こうしゅく)が封じられた国で、当時の首都であった帝丘は現在の河南省濮陽に位置する。孔子の一行は濮水を渡り衛の首都に入り、そこの人口の多さに驚いた。

孔子「ここは本当に人が多い。」
門徒「すでに人が多いなら、さらに何を加えることがありましょうか?」
孔子「彼らの生活を富ませてやればよい。」
門徒「人々が富んだら、次はどうしたらいいのですか?」
孔子「彼らに教育を施せばよい。」

人々の経済生活の需要を満足させてから教育を施す。これは孔子が魯国から離れた後に思い至った政策上の発見である。「衣食足りて礼節を知る」というのは元々は管仲の言葉だが、この言葉を孔子は思い出したのであろう。

衛国に到着すると、彼らはまず子路の妻の兄に当たる顔濁鄒(がんだくしゅう)の家に住むことになった。その後、子路と顔濁鄒は彌子瑕(びしか)と連絡を取った。彌子瑕は衛の君主である霊公の寵臣で、子路の妻と彌子瑕の妻は姉妹という関係であった。

彌子瑕は孔子に彼の家に住むよう勧め、子路に「もしあなたの先生が私と協力すれば、衛国で卿の地位を得ることができるだろう」と告げた。しかし孔子は彼の恩着せがましい態度が好きではなかったので、ただ「そういう運命ならば」と答えて彌子瑕の提案に乗り気ではなかった。

衛の霊公は孔子と会見し、「俸粟六万」を支給する事にした。これはかなりの高収入であり、孔子一行十人近くの生活の必要をまかなって余りある金額であった。高収入を得て、孔子たちは自分たちの宿舎を得ることができた。

孔子が衛に来た時期は紀元前497年ころのことであったが、それから四年後に衛の霊公は逝去する。この時期の衛国の政局はあまり平穏とはいえず、孔子が衛に来た一年目には公叔戌(こうしゅくじゅ)の反乱が発生している。

公叔戌の反乱計画が漏えいすると、衛の霊公は公孫余假(こうそんよか)という人物を孔子の住居に派遣して孔子を監視するようになった。公叔戌は孔子とも交友があったためである。孔子は衛の君主から疑われていることを感じ取り、衛国への滞在をわずか十ヶ月で切り上げ衛国を離れる事にした。

野崎晃市(42)

孔子伝(21):孔子の失脚と衛国への亡命

衛国
衛国の復元された門

孔子の失敗が明らかとなり失脚してほどなく、孔子は病の床に伏し幾日も起き上がることができなかった。魯の定公が見舞いに訪れた際に、孔子は床に臥し礼を行う事ができなかったが、なるべく礼儀正しく振舞って体調の悪い様子を見せないように心がけた。

紀元前497年の新年を迎えてすぐ、斉国から魯に女性の楽舞団が送られてきた。夾谷の会より以来、斉国は魯国をなんとか弱体化させようと考えていた。そこで十六名の歌と踊りができる斉国の美女と百二十匹の良馬を魯国に送った。

名目は親善と言う事であったが、実際には魯の君主を享楽で惑わして政治から引き離すことが狙いであった。それからというもの魯の定公は、斉の美女の歌舞に見とれて酒色に迷い政治に携わらなくなってしまった。

魯国では間もなく郊祭が挙行され、孔子は大夫の身分で参加することになっていた。そこで孔子は祭の際に大夫に配られる肉が、自分にも分配されるかどうかを見て居留を決めようと考えた。しかし孔子に肉は分配されず、孔子は君主から見棄てられたかのような屈辱を味わった。そこで、孔子は門徒たちを引き連れて国外へ逃れる決心を固めた。

「衛国に行きましょう!」と子路が述べたのは衛国で官吏となっている妻の兄にあたる顔濁鄒(がんだくしゅう)に頼れると期待したからであった。こうして孔子の十数年の長きにわたる諸国を巡る旅が始まるのである。

孔子と門徒たちは魯国から衛に向けて出発した。すると、季桓子が太師己(たいしき)という楽師を使者として思いとどまらせようとした。太師己は孔子に同情して「あなたはべつに間違ってはいない」と慰めた。孔子は言葉少なく、琴を演奏しながら歌い始めた。

あの婦人の口は、まともな人を遠ざける
あの婦人たちは、死をもたらすだろう
私は旅に出て、長生きすることにしよう

太師己は戻った後に、見てきた情況をありのままに季桓子に告げた。季桓子は孔子の歌が斉国の美女を批判しているのだということを理解した。孔子の出国に対し季桓子は無理に引きとめようとはしなかったが、思わずため息を漏らしたのであった。

野崎晃市(42)

孔子伝(20):三都毀壊

費
山東省の費邑城跡

夾谷の会での外交的勝利により、魯国は一時的に安全な状況を享受することができた。しかし陽虎の反乱の傷跡はいまだ完全に消えてはおらず、夾谷の会の後まもなく再び侯犯(こうはん)が反乱を企てる事件が発生した。

古代には各国の大夫が自己の支配下にある郊外の町を有していた。貴族自身は首都に住んでいたので、郊外の町は一般に家臣を派遣して支配していた。ところがこうした郊外の町は防衛強化のため、堅固な軍事要塞として防御を固めていた。

魯国では叔孫氏の郈(こう)、季孫氏の費(ひ)、孟孫氏の成(せい)などの三都が、そのような軍事要塞化された城壁を有していた。「三桓」が三都を支配していたのは自己の実力を強化するためであったが、そこを拠点とした家臣の反乱をしばしば招くことになった。

反乱を起こした侯犯はもともと叔孫氏の家臣で、郈邑の馬を管理する官吏として任じられていた。郈邑は魯の北境に位置し、城壁の守りが厚く守るに易く攻めるに難い町であった。

叔孫氏は二度軍を率いて包囲して攻撃したが攻め落とす事ができず、後に離反の策略を使って町民と侯犯の関係を悪化させ、侯犯が逃亡するようにし向けてこの町を取り戻した。

孔子は摂相となってまもなく「三都毀壊」を建議し、郈・費・成の三つの町の城壁を撤去するよう求めた。三都の堅固な防御施設を撤去すれば反乱の発生を防止できる上に、その余勢を借りて費を根拠地とする陽虎の残党を一掃できると訴えた。それゆえ当初は季孫氏と叔孫氏は同意を表明し、孟孫氏も反対しなかった。

しかし、孔子の「三都毀壊」の真の目的は、「三桓」の実力を抑えて魯の君主を強化することにあった。それで魯の定公も孔子の政策を積極的に支持した。孔子は「三桓」の危険を取り除くふりをして、実際には「三桓」の実力を削ぐという作戦に出たのである。

郈の城壁破壊は比較的に順調であった。そこを根拠地としていた侯犯はすでに逃亡していたので、叔孫氏が軍を率いて城壁を破壊した時にもさしたる抵抗もなかった。

しかし費邑を根拠地としていた陽虎の残党が危機感を募らせていた。彼らは費邑が破壊される前に、費人を率いて魯都を襲撃し先手を打ったのである。魯定公や三桓らはみな不意をつかれ、危ない所まで追い込まれた。

孔子は定公の危機を聞くと、直ちに兵を率いて救援に赴き費人を打ち破った。この事件が収束すると季桓子と孟懿子は軍を率いて費を攻めて城壁を破壊し、その後に子路の推薦で孔子の門徒であった子羔が費の町を管理する宰に任じられた。

成の城壁破壊は最後に計画された。成邑は魯の北の国境にあり、斉国との国境とも遠くない位置にある。しかし成の城壁破壊は成邑の宰である公斂處父(こうれんしょほ)の反対を受けた。この人物は頭の回転が速く、陽虎の乱を鎮圧して功を挙げ孟氏から信頼を受けていた。

公斂處父は君主を強化するという孔子の真の目的に気が付いていたようだ。また孟氏の当主は若いころに孔子に学んだことがあったが、公斂處父から警告を受けて兵を動かそうとしなかった。最後は魯の定公が単独で軍を出し成邑を攻撃したが、攻め落とす事ができず攻撃は失敗に終わった。

孔子にとって、三都毀壊は君主の権力を強化し国家を安定させるための政策であった。しかし三都毀壊は三桓の懐疑を招き、それまで魯の権力を握っていた三桓から得ていた信頼を失うこととなった。孔子は数年で司寇から摂相にあっという間に昇進したが、失脚するのもあっという間であった。

野崎晃市(42)

孔子伝(19):夾谷の会(きょうこくのかい)

夹谷会盟
夾谷の会の跡地


夾谷の会は孔子が魯国の大司寇だった時に参加した、斉国と魯国の二ヶ国間外交会議である。

孔子が魯国で仕官するころに、斉国は魯国の一部を占領して魯国の安全を脅かしていた。魯国は斉国と講和を結んで安全を図るとともに、斉国に占領されていた土地の返還を求めるため夾谷で会議を開くことにした。

魯国は孔子を礼儀の監督官として君主の定公と共に会議に派遣した。孔子は若いころに斉国に赴いて景公と会見したことがあり、斉国の君主に顔を知られていた。さらに斉国で脅迫されて追い出されたこともあり、斉国に対して警戒心もあった。

孔子が君主に付き従って会議に出席するとの情報が斉に伝わると、斉国の大夫は景公にこう忠言した。「孔丘は礼儀の事は知っているが勇気がなく軍事にうとい。もし両君が会見する時に武力で脅せば、きっと我々の目的が達せられるでしょう。」

会議が始まると斉国の執事が当地の舞楽を演技したいと申し出て、踊り手が手に武器を持って駆けつけてきた。孔子はこの情景を見ると、魯国の護衛に舞踊隊を殺すよう命じて君主を保護した。

孔子は駆け上がるように壇の上に登ると、斉国の無礼を責めて言った。「両国の君主が友好のために会見している場で、野蛮人が武器を持って威嚇するとは、これは不敬であり徳に対して義を失した行いで無礼です。斉国の君主はよもやこんな無礼はなさりますまい。」

斉の景公は心にやましいものを感じて、すぐに踊り手を下がらせた。斉国は魯の定公を拉致する計画が未遂に終わったものの、さらに斉国の出兵の際には魯国からも兵を出すよう要求した。孔子はすぐに返答して、魯国から兵を出す前に占領した土地を返すように要求した。

会議の後に斉の景公は魯国との関係を改善するために、占領していた三つの町を魯国に返還する約束をせざるを得なくなった。孔子は占領されていた土地を返還させ、斉という強国を前に魯国の独立と尊厳を守る事ができた。それゆえ、夾谷の会は魯国から見て外交上の重大な勝利であった。

孔子は夾谷の会で挙げた外交上の成功により、君主への忠誠を示したばかりか自己の品格と政治的才能を証明して大いに声望を高めるた。それから約二年後に孔子は代理摂相の地位に抜擢されることになる。

野崎晃市(42)

孔子伝(18):少正卯を誅殺する


曲府杏
孔子が講学したという曲阜の杏壇

『荀子』によれば孔子が魯で権力を握った際に、かつて私塾を経営していた時にライバルであった少正卯を誅殺した。しかも魯で司寇として権力を握って早くも七日目に、少正卯を誅殺し死体を3日野ざらしにするという刑を執行している。

孔子と少正卯との間にはかつて個人的な衝突もあった。孔子が塾を開くと講堂がいっぱいになるほどの生徒が集まったが、少正卯が孔子の悪い噂を広めて生徒を奪ったことが三度あった。ただ孔子の一番弟子の顔回だけが、少正卯の悪辣さを見抜いて孔子から去ることがなかったという。

もちろん、孔子は塾の経営を邪魔されたという私憤から少正卯に報復したわけではない。なぜなら、この人物の「少正」というのは姓ではなく周時代の官職名で大夫の地位にあったことを意味している。それなりの地位にある人物を死刑にするには、それなりの理由と証拠が必要だ。

それで門徒の子貢は「少正卯は魯の有名人です。先生が権力を握ってすぐにこれを殺したのは、やり過ぎではありませんか」と質問した。そこで孔子は次のように答えている。

「極悪人が五種類いるが、それは盗人などとは比べものにならない。一は心が反逆的で陰険な者。二は行いが偏っていて固執する者。三は言論が偽りであるのに雄弁な者。四は他人の悪いことばかり記憶してその範囲が広い者。五は悪事に従って勢力をなす者。これら五つのうち一つでも君子の誅殺を免れることはできないが、少正卯は五つを兼ね備えていた」

「住居では仲間を集めて徒党をくみ、その論説はよこしまな目的を飾って衆人を惑わし、その強引さは正しいことに背いていても独立して進めるほどである。このような人間こそ姦雄と呼ぶにふさわしく、死刑にせざるを得なかったのだ。」

孔子の説明からすると、少正卯は国家の中枢に権力を持ちながら国家転覆やクーデターなどを影から操っていたのではないかと思われる。魯の君主定公が即位してからというもの、陽虎や公山弗擾によるクーデターや反乱が相次いで魯の国内が不安定だったのは少正卯が背後で操っていたのかもしれない。

この孔子が小生卯を誅殺したという説は朱熹などから、聖人が権力を握ったとたんに人を殺すというのは考えられないと疑問視されてきた。しかし中国の政治の世界では、どんな優秀な政治家であっても粛清がつきまとうのである。孔子も古代の粛清の例を次のように列挙している。

「殷の湯王は尹諧を誅殺したし、周の文王は潘正を誅殺し、周公は管叔と蔡叔を誅殺し、太公望は華士を誅殺し、管仲は付乙を誅殺し、子産は史何を誅殺した。これら七人は世は異なっていても、同じように誅殺された者である。これら七人は時代が異なっていても同じように悪人だったため赦されなかったのである」

孔子には天下国家のためと信ずればある場合には血を流すこともいとわないという面があることは、後に説明する夾谷の会でも孔子がためらいなく処刑を命じていることからも見て取れる。

野崎晃市(42)

孔子伝(17):魯国の官僚となる

崇聖門
曲阜の孔子廟の崇聖門

孔子が任じられた最初の官職は、魯国の西北部の町である中都の宰であった。この宰とは現代で言えば市長のような職位だが、魯国は孔子の腕前を試験的に見るためにこの職位に任じたのであろう。

『孔子家語・相魯篇』によれば孔子が実施した政策は、老人や子供に適した食事を与え、労働を体力によって分け、男女の歩く道を分けて風紀を正した。また道で落し物を盗む者がいなくなり、道具も偽物を作る者がいなくなったという。

孔子は中都の宰に任じられてから二年すると魯国の小司空に任じられ、それからほどなくして魯国の司寇に任じられた。小司空とは土木工事をつかさどる役職であり、司寇とは司法長官の地位に当たる。貴族の出身ではない孔子が、司寇に任じられるというのは大抜擢であった。

孔子が司法長官となって風紀を正したため、妻の不倫に何の処罰もしていなかった人は妻と離婚することにした。また不正行為により蓄財していた人は、罪を恐れて魯国から逃げ出した。また牛馬を売っていた商人たちも、不正ができなくなってしまった。

しかし、孔子の出世と政策に不満を持つ者たちを集めて不穏な動きをする者が現れた。その名を少正卯と呼び、孔子の私塾時代から邪魔をしてきた人物である。以前に少正卯は孔子の悪い噂を流し、そのせいで三回孔子の私塾から門徒が消えたことがあった。

キリストにはユダ、釈迦にはダイバダッタとなぜか聖人の身近には悪辣な邪魔をしたり命を狙う者が現れる。光が強ければ影が生じるのは避けられないが、ダークサイドに落ちた者は光が妬ましくてたまらなくなるのであろう。孔子の身にも手段を択ばない悪辣な少正卯の毒牙が迫っていた。

野崎晃市(42)

孔子伝(16): 五十にして天命を知る

曲阜の至聖林の門
曲阜の至聖林の門

魯国の定公は陽虎が失脚した後に、孔子を招聘して官職に任じることにした。魯国での孔子の任職期間は四年ほどで長くはないが、孔子にとって最も誇らしい活躍をした時期であった。

魯国の権力者である季桓子は陽虎に暗殺されかけたが、幸いにも危機を脱する事ができた。季桓子が着手すべきことは自己の政治勢力を拡大し、権力基盤を固めることであった。

孔子は若い頃に季氏の田畑の管理人をしていたことがあり、仕事の評判はなかなか良好だった。陽虎の事件においても孔子の態度は慎重で、陽虎から仕官を誘われても仕えることはなかった。

外交面では魯国の混乱の隙をついて斉国が攻め入り、魯国の土地を一部占領していた。斉国に占領された土地を奪還することが魯国の課題となっていたが、孔子は斉国の景公と会見したこともあり斉国と外交交渉ができると見られていた。

これらの理由から孔子は魯国の君主の定公と貴族たちの信頼を得て、官職に任じられる事になったのであろう。これまで孔子は政治から遠ざけられてきたが、ようやく自己の理想を実践に移す機会を得ることになったのである。

孔子は「五十にして天命を知る」と述べているが、孔子が魯国で官職に任命されたのはちょうど五十歳になったころであった。五十代といえば男性が最も円熟して脂の乗り切った時期であり、孔子は精力的に働いて異例のスピードで出世を遂げていった。

孔子はまず地方行政の長官に任命された後に、司寇と呼ばれる司法長官に昇進し直接に国政に参与するようになる。

野崎晃市(42)

孔子伝(15): 陽虎のクーデターと失脚

孔子旧宅の門
曲阜の孔府大門

孔子が魯国に戻った後に魯国の君主の昭公を復位させる計画は頓挫し、そのまま昭公は七年後に亡命先の晋国で亡くなった。昭公の死後に、昭公の弟である公子宋が魯国の君主となり定公として即位した。

紀元前505年に魯国の政権を握っていた季平子が死ぬと、季孫氏の陪臣であった陽虎がその隙に乗じてクーデターを発動した。これより魯国は陽虎の支配を受けるようになり、すべての国事と政治は全て陽虎が牛耳るようになった。

陽虎は権力を握った後に自己の地位を固めるため、今まで政界から干されていた孔子にも幕僚となるよう声をかけた。三十年前には孔子を門前払いにした陽虎であったが、孔子は既に名士となっており、孔子を取り込めば自己の影響力を拡大できると見込んだのである。

陽虎は「能力がありながら、国の乱を治めようとしないのは仁と言えるだろうか。官僚になりたいと願っているのに、機会を逃すのは知と言えるだろうか。月日の立つのは早いが、年月は待ってはくれない」と孔子を勧誘した。

孔子はこの言葉を聞いて「わかりました。いずれ仕官することもございましょう」と答えた。もし陽虎からの誘いをその場で断れば、陽虎に殺される危険があったからである。しかし孔子は陽虎が数年で失脚すると予想していたため、陽虎に仕えることはなかった。

紀元前502年、陽虎は目の上のたんこぶであった以前の主人筋である季孫氏当主の季桓子を暗殺する計画を立てた。ところが孟孫氏の宰であった公斂處父(こうれんしょほ)が陽虎の計画に気づき、陽虎の兵と戦って季桓子の暗殺を未然に防いだ。

孔子の予想通り、陽虎は季桓子の暗殺が失敗すると国外への逃亡を余儀なくされた。当時の孔子は50歳となったばかりであったが、この陽虎の失脚がきっかけとなり思いがけず政界で活躍の舞台を与えられることとなる。

野崎晃市(42)

孔子伝(14): 四十にして惑わず

大成殿
曲阜の孔子廟の大成殿

孔子が斉より魯に戻って官職に就くまでの十数年の間、孔子は亡命した主君の昭公に忠誠心がありすぎるとして政治から遠ざけられた。魯国では季孫氏を中心とした「三桓」が権力を握り、主君へ忠義を示した孔子はいわば干された状態だったのである。

この時期はちょうど孔子が「四十にして惑わず」と述べた年齢に当たる。孔子も若いころは様々な可能性を試してみたくなり、利益や権力を求める生き方に心が揺らいだこともあったのかもしれない。しかし孔子は四十歳にして自分の理想とする生き方に惑わなくなった。

十数年間のこの長きに渡る歳月の中で、孔子は清貧の生活を送りながら私塾での教育に没頭した。質素な食事ときれいな水、肘を曲げて枕として寝ればそれで十分に楽しいものであった。

孔子は経済上の困窮と政治上の寂寞とを耐えながら熱情を文化教育事業に傾けたが、その中で崇高な精神生活を送ろうとした。孔子の有名な次の言葉は、この時期に発せられたものであろう。

「学んで時にこれを復習する、これは愉快な事ではないか。友人が遠方より来て語り合う、なんと楽しい事ではないか。人に知られなくても後悔しない、これが君子ではないか」

門徒を育成するに当たり孔子が掲げた目標が、この「君子」と呼ばれる高尚な品格の人物であった。孔子の「君子」という概念は『論語』の中だけでも百七回も使用されており、目標とするべき理想の人格と定義されている。

「君子」と対立する人格的概念として定義されたのが「小人」である。孔子は身分や地位にかかわらず、知識が浅薄で思慮がなく卑劣な人間を「小人」と呼んだ。孔子はしばしば「君子」と「小人」を対比し、「君子」と呼ばれるような人格者となることを目標とした。

「君子は義にさとり、小人は利にさとる」
(君子は義を追及するが、小人は利益ばかり追求する)

「君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む」
(君子は自己への要求が高く、小人は他人への要求が高い)

「君子はたいらかに蕩蕩たり、小人はとこしなえに戚戚たり」
(君子は穏やかで堂々としているが、小人はいつもコソコソしている)

門徒の子貢が当時の政治家についてどう思うかと孔子に尋ねると、孔子は皮肉たっぷりに「斗筲(としょう)の人、なんぞ数うるに足らず」と答えた。「斗筲」とは竹の小さな容器のことである。自己の利益だけを顧みて国家と民衆を顧みない権力者や官僚たちは、孔子にしてみれば器の小さな「小人」で相手にする価値もなかった。

野崎晃市(42)

孔子伝(13):斉の景公に政治を問われる

孔子聞韶処
山東省淄博市にある孔子が韶を聞いた場所

孔子は斉国に亡命した昭公を追うように斉国に赴き、昭公を魯へ復帰させるために斉国の君主であった景公に近付いた。孔子は息子の誕生時に鯉を賜り、また洛陽への留学を支援した昭公に恩義を感じていたのであろう。

しかし斉の景公は亡命してきた昭公を復位させるという大義名分で魯国に攻め込み、昭公を傀儡君主にしようと計画していた。孔子と景公とは昭公を魯国の君主へ復位させる点では一致していたものの、その目的は全く異なっていたのである。

孔子は斉国の都城である臨淄に到着すると、まず斉国の貴族の高昭子を訪問して彼の家に逗留した。彼の紹介により斉の景公との会見が決まり、景公は孔子が博学で礼をよく知ると聞き及んで政治について孔子に質問した。

景公から政治とは何かについて質問されると、孔子は「政治とは財政を節約することです」と答えた。斉の景公は毎日のように酒の宴を催し、四千匹もの馬を飼うなど必要以上の贅沢に耽っていた。一方では民衆から重税を取り立て、国内は疲弊し道には飢民が溢れていた。

孔子が節約を訴えたのは景公が贅沢をやめて重税を軽くし、民の負担を軽減するように希望したからであった。しかし贅沢以外に考えの及ばないこの斉国の君主は、孔子の批判的な意見をすこしも気にも留める様子はなかった。

そればかりか景公は孔子の答えを聞いた後に、孔子に褒美として尼谿という地方を与えることを約束した。それは景公が昭公と孔子を魯国へ攻め込む大義名分として利用しようと考えていたからである。

しかし斉国の賢人として名高い宰相の晏子が孔子を重用することに反対した。晏子によれば孔子の礼楽を重視する思想は、学びきれるものではなく実用的でない机上の空論であった。

さらに昭公の復位への支援も、斉の大夫が反対したために行き詰まってしまった。当初の魯国に攻め込んで昭公を復位させる計画は棚上げになり、昭公の復位に向けて活動していた孔子も斉国にとって利用価値がなくなった。

斉の景公は孔子を尼谿に封じると言った約束を反故にし、「あまり良い待遇で迎える事はできない」と孔子への約束を撤回した。

さらに斉の大夫が孔子を殺そうと企てているという知らせが孔子の耳に入った。孔子は斉の景公に助けを求めたが、景公からは「私は年をとったのであなたを用いることができない」と無下に断られた。

こうして孔子は門徒たちと共に斉国を離れざるを得なくなり、斉国での一年半ほどの滞在を終えて魯国へ帰国することになった。

命を狙われる緊張した状況で、洗ったお米を炊く余裕もなくそのままにして急いで逃げるようにして帰国したという。

こうして昭公の復位へ向けた活動や仕官の望みはかなわなかったが、孔子が忠義を尽くす人間であるという評判は高まった。

また斉国では「韶」と呼ばれる伝統音楽を聞いて三カ月間も食事を忘れるほど熱中するなど、孔子の礼楽や教養を深める面での熱意はますます深まっていった。

野崎晃市(42)

孔子伝(12):人間は虎より恐ろしい

泰山
泰山の頂上付近

孔子は魯の昭公が斉国に亡命してまもなく、紀元前517年頃に昭公の後を追うように斉国へ向かった。斉国は太公望を祖とし青州の隣町の臨淄を首都とする国で、当時は太公望呂尚から数えて第26代目の景公が君主であった。

孔子の一行は曲阜から臨淄へ向かう途中で、泰山という中国で最も有名な山に差し掛かった。泰山の高さ自体は1545メートルとさほど高いわけではないが、黄河平原においてはどっしりとひときわ目立つ存在である。山上の景観は仙人が住んでいそうな中国独特の岩山の風景が広がり、霊山として古今通じて信仰の対象となっている

孔子の一行が泰山の付近を通った時に、ある女性が泣いているのが見えた。子路を派遣して理由を尋ねると、夫と子供が野生の虎に食われてしまったという。そこでどうしてこんなに辺鄙な場所に住んでいるのか尋ねると、ここまでは役人が税を取り立てに来ないからだとその女性は答えた。孔子は弟子たちに「過酷な政治は虎よりも恐ろしいものだ」と述べた。

中国では今でも東北地方などで野生の虎が出没することがあり、毎年のように虎に襲われて数人の死傷者が出る。しかし虎は恐ろしくてもせいぜい一年に数人が犠牲となるだけだが、過酷な政治は時に数千万人単位で死者を出す。

中国では毛沢東時代の文化大革命で数千万人が死んだと言われているし、スターリン時代のソ連でも2000万人が死に追いやられた。日本でも第二次世界大戦では数百万人が犠牲となったし、福島からの放射能はゆっくりと日本人を絶滅に追い込もうとしている。

先日は小泉進次郎が「悲観的な考えしか持てない人口1億2千万人の国より、将来を楽観し自信に満ちた人口6千万人の国の方が、成功事例を生み出せるのではないか」と語ったらしいが、これが6000万人を間引きますよということを暗に意味しているのなら、すぐにでも逃げ出したくなるほど行く末が恐ろしい話だ。

野崎晃市(42)

孔子伝(11):魯国でクーデター勃発

八佾
八佾(はちいつ)の舞

孔子が洛陽から魯国に戻ってきたころ、国内では魯国の君主と貴族たちが緊張状態にあり政治的危機に発展していた。魯国で最も権力を握っていたのは貴族の季孫氏で、それに続いて孟孫氏と叔孫氏があった。これら三家はみな魯の桓公の子孫であったため、当時の人々からは「三桓」と呼ばれていた。

紀元前562年ごろに季孫氏の要求により魯国の政府は軍隊の改変に着手し、君主に兵卒を提供していた村落共同体は上・中・下の三軍に分けられ、「三桓」がそれぞれ一軍を率いることとなった。季孫氏らがこのような軍の改革を進めたのは、軍権を君主から奪い取って自家の私兵にするためであった。

こうして「三桓」とりわけ季孫氏の実力が増強されたが、魯国の君主の実権は大幅に低下し権力の伴わない君主となっていた。例えば季孫氏の季平子は君主のところから引き抜いた楽団と自分の家の楽団を併せて八佾(はちいつ)とし、天子だけがとり行えるとされていた八佾の舞による楽舞を主催して権力を誇示した。

これには君主の昭公もさすがに激怒し、魯国朝廷の大臣たちの間にも季平子への不満が高まっていた。昭公は季孫氏を殺す計画を立てて軍を率いて討伐に乗り出し、まず季平子の兄弟の季公之を血祭りにあげて季孫氏の門に攻め入った。ところが叔孫氏の家臣が兵を率いて季孫氏の救援に駆けつけ、孟孫氏も挙兵して昭公の部隊を撃退した。

この挙兵が失敗した事で、昭公を支持していた人たちはみな散り散りに逃げ、昭公も亡命を余儀なくされる事となった。昭公は侍従を連れて斉国へ逃げ、その後に再び晋国へ逃げその後七年にわたる亡命生活を送り最後は晋国で客死した。

孔子が洛陽から帰った後に体験したのは、こうした魯国の君臣間の争いとクーデターの勃発であった。この闘争の中で双方が示した陰謀や権力欲は、孔子の目を背けたくなるような醜いものであった。孔子は季平子の八佾の舞について、「八佾の舞はとても許せるものではない」と批判している。

国の君主たるものが君主らしく振舞わず、臣下たるものが臣下として振舞わず、完全に礼の尊敬の心や謙譲の原則を忘れ、君臣の分が乱れていることに孔子は心を痛めた。この事件をきっかけに孔子は亡命した昭公の後を追うように、門徒たちと共に斉国に行く決意を下すことになる。

野崎晃市(42)

孔子伝(10):孔子 VS 老子

孔子と老子
老子に道を問う孔子

周王朝の首都の洛陽に留学した孔子が訪問した最も重要な人物の一人は老子であった。老子は社会経験が豊富で古代の歴史に通じていながら、礼に対して厳しい批判的態度を表す反骨の老人であった。

孔子が彼に会いに行った目的も礼儀について教えを請うためで、『礼記・曾子問』などによれば孔子と老子は主に葬儀に関して議論をしたと伝えている。

孔子は首都で有名な学者を訪問して知識を吸収し、将来は上層社会に仲間入りして政治や教育に役立てるつもりであった。しかし老子からすれば、孔子が熱心に学んでいるものは華やかに見えるばかりで実用性がないと思えるものばかりだった。

老子からすれば礼儀の煩雑な細かな規則にこだわれば、質朴な天然の人間性を失ってしまう。人間が偽りのない天然の人間性を失えば詐欺や偽善を生じるため、社会が乱れるのだと考えていた。

それゆえ、老子に言わせれば礼儀などというものは「忠義が形式化した余りカス」であった。そのため孔子が教えを請いに行った時に、老子はいささかぶっきらぼう次のように答えた。「あなたは傲慢さと貪欲さ、自我の強さと妄想を除くようにしなさい。」

孔子が留学を終えて魯国に戻る前に老子に別れを告げに行くと、老子は孔子を門まで見送って別れの言葉を次のように送った。

「聡明で洞察の深いものでも早く死んでしまう人は、人をあれこれ議論するからだ。雄弁で博学なものでも自分を危険な立場に置く人は、他の人の悪をよく暴くからだ。あなたも自分の主張をあまり強く出さないようにしなさい。」

孔子は老子の博学さと思想の深さに圧倒されたが、どこか神秘的でとらえどころがないようにも感じた。後に門徒に老子の印象を次のように語っている。

「私は鳥が空を飛ぶものである事を知っている。また私は魚が水中を泳ぐものである事を知っている。しかし、龍がどうやってそれが天を飛び雲に乗るのかは分からない。私が老子に出合った感想は、この龍と同じようなものだ。」

以後、中国で孔子は科挙を受けて高級官僚を目指す政治家や文人の祖として崇められたが、老子は世俗を避けて山に隠棲し仙人を目指す道家の祖となり、中国の異なる2タイプの知識人の生き方を代表することになる。

野崎晃市(42)

孔子伝(9):首都の洛陽への留学に推薦される

忠恕堂
曲阜の孔子忠恕堂

孔子は私塾経営により有名になり、魯国の貴族から首都の洛陽への留学の推薦を受けることになった。もっとも早期に孔子に注目したのは魯の大夫であった孟僖子(もうきし)である。

この人物は魯の昭公に従って楚国を訪れた際に礼儀を知らずに恥をかいたことがあり、礼儀を中心に教える孔子の教育方針を支持していた。

孟僖子は孔子が三十四歳の時に病没したが、臨終前に息子の孟懿子(もういし)と南宮敬叔(なんきゅうけいしゅく)を孔子に託して礼を学ばせた。

孟僖子が子供の教育を孔子に託したことは、孔子の私塾が民間だけではなく政府や上層階級の貴族の間でも注目されるほどになったことを示している。またこれが孔子の首都洛陽への留学と以後の政治活動に道を開くことになった。

特に孟僖子の息子の南宮敬叔は首都へ留学することになっていたが、まだ未成年であったため孔子が留学に同行する家庭教師として推薦された。

魯国の君主はそれに同意し、特別に孔子に車や馬と召使の少年を賜った。君主の支援は孔子に交通の便を与えただけでなく、孔子の今回の留学にハクを付けた。

周王朝の首都の洛陽は最大の都市で政治と文化の中心であった。その文化と典籍の豊富さにおいても群を抜いており、最も完備した国家の儀礼制度が保存されていた。

ここには有名な学者であった老子が周王朝の収蔵室で歴史を研究していたし、宮廷音楽の専門家の萇弘(ちょうこう)から音楽について話を聞くこともできた。

以前に陽虎が孔子の宴会参加を阻止して侮辱した昔日に比べ、現在は魯の権力ある貴族や君主から教育家として認められるようになったが、その間には既に十七年もの歳月が流れていた。

野崎晃市(42)

孔子伝(8):教えありて類なし

孔廟
曲阜の孔子廟 大成門

「教え有りて類なし」これは孔子が門徒を募集する際に、身分・収入・階級の区別なく分け隔てずに受け入れる教育方針を表した言葉である。門徒たちは束脩(そくしゅう)と呼ばれる干し肉の束を持ってくれば、だれでも入学して教えを受けることができた。

この孔子の教育方針そのものが、旧来の貴族や高官の子弟だけを相手にしていた教育への一つの大きな挑戦でもあった。孔子の私塾の門は、始めから一般の民衆と彼らの子供たちのために開かれていたのである。

例えば初期の門徒の子路はもともと喧嘩を好む遊興の徒で、頭には鶏の毛を挿し、身には派手な飾り物を身に着け、腰には長剣を帯びていた。子路は現代ならば喧嘩が好きなチンピラか暴走族にでもなりそうな不良青年だったのである。

子路が初めて孔子を訪れた時も、評判の新米教師に難題を吹っかけて鼻を明かしてやろうという魂胆だった。しかし応対に出てきた孔子は190センチと大柄な堂々たる体格で、礼をもって対応したとはいえ威圧感があり子路をたじろがせた。

子路は威圧されてなるものかと、「礼儀や学問など習ったところで、いったい何の役に立つのか」と孔子に食ってかかった。また孔子が彼に何が好きかと尋ねると、子路は長剣を振うのが好きだと腕っぷしを自慢した。

そこで孔子は弓道や馬術など子路の好きな武道に例えて学問の仕方を説明することにした。孔子は学問の重要性は例えば馬を御すには鞭が手放せないこと、弓を上手に射るには弓の調節が必要なことと同じであると説明した。

子路はそれに反論して「竹は人が手をかけなくてもまっすぐに伸びて、それを切って矢にすれば動物の皮も突き破る」と応じた。孔子は「もし切った竹を削って羽毛をつけ矢じりをつけなければ、どうして深く射ることができるだろうか」と子路をたしなめた。

子路はこの孔子の即答の妙にすっかり感心し、また孔子が自分の好きな武道にも理解があることがわかったのですっかり気に入ってしまった。

子路が孔子の塾に通い出してしばらくすると、子路の服装が清潔になり礼儀正しくお辞儀するようになった。周囲の人々はあの乱暴者がと、その変化に驚いた。

子路のように出身階級が低いため十分な教育を受けられなかった青年こそ、孔子にとっては最も歓迎すべき生徒であった。孔子はたとえ彼らに欠点があったとしても、それを克服するように助ければ社会に有用な立派な人間になると信じていたのである。

野崎晃市(42)

孔子伝(7):三十にして立つ

孔府大堂
孔府の大堂

孔子は二十歳代には魯国の貴族である季氏の下で働く雇われ人であったが、三十歳になる前に独立して私塾を設立する決意を固めた。いわば雇われのサラリーマンが会社を辞め、独立して新会社を起業したようなものである。

孔子は当時としては比較的早期に私塾を創立したことにより、中国最大の教育家として知られることとなった。孔子による私塾の創立は文化の下層階級への普及を加速させ教育史上でも画期的な出来事となった。

春秋時代以前に学問は王侯貴族や高官の子弟の占有物で、学術は王室や宮廷の専門家のためのものであった。しかし春秋後期に生産力の向上と私有経済の発展、戦争と各国内部の政治闘争の激化がこれら旧貴族の没落や離散をもたらした。

旧貴族の没落にともない、貴族層は国家の必要とする人材を十分に生みだすことができなくなった。しかし下級の「士」階級には知識や実際の事務能力に長じた者がおり、彼らは政府から選抜される人材供給源となっていった。

それで平民・商人・遊民の中にも文化的素養を高めて、「士」階級の仲間入りをしたいと欲する者が現れた。孔子の創立した私塾は、そうした宮廷や国家の官吏を目指す若者に基礎教育を行う私塾となった。今でいえば国家公務員・弁護士・政治家を目指す若者を集めた専門学校のようなものである。

春秋戦国時代は孔子のような民間の学者が多く出現して学派や私塾を形成して諸子百家と呼ばれ、中国の思想界は百家争鳴と呼ばれる空前の繁栄を迎えることとなるのである。

野崎晃市(42)

孔子伝(6):二十にして結婚す

孔子の息子の墓
孔子の息子 孔鯉の墓

孔子に「十五にして学に志し、三十にして立つ」という有名な言葉がある。なぜ十五歳から三十歳にいきなり飛んで、二十歳がないのだろうかと疑問に思ったことはないだろうか。

実は孔子は二十歳の時に重大な人生の転換点を迎えているが、それをあえて伏せているのだ。その人生の転換点とは結婚と出産で、孔子は十九歳で結婚して二十歳で子供の父親となっている。

確かに「十五歳で学問に志す」の後に、続けて「二十歳で結婚して子供を産んだ」と言ったのでは何か学問に集中していないようにも聞こえてしまう。そういうわけで聖人孔子もやるべきことはやっていたのだが、プライベートにはあえて言及しなかったのだ。

孔子は十九歳で幵官氏と結婚したが、結婚する前に宋国に赴いて殷礼を研究した。伝えられるところでは夫人は宋国の人であるので、二人は孔子が宋国で留学時代に知り合ったのかもしれない。

孔子が結婚して一年後に息子が生まれた。魯の昭公から出産祝いに鯉が送られたので息子の名前を鯉、字を伯魚と呼んだ。結婚して家庭を持ち子が生まれたことは孔子に喜びをもたらしたが、同時に家庭の経済的責任を担い生計を立てるために仕事に就かねばならなくなった。

『史記・孔子世家』によれば孔子は結婚後に季氏の家で「委吏」として雇われて倉庫の管理者として働き、その後に「乗田」となり季氏の家畜を管理した。孔子は立派に仕事をこなし委吏となった時に会計は正確で、乗田となったときは牛や羊がよく育ったと記されている。

ただし孔子と妻の結婚生活はあまりうまくいかなかったようで、孔子の子孫の孔頴達は孔子が離婚して妻を実家に帰したと伝えている。また『礼記・檀弓』には孔鯉が母親の逝去を泣いていると、孔子からあまり泣かないようにたしなめられたともある。

孔子の結婚生活が後に破綻したことも、二十歳での結婚と出産に触れなかった原因の一つかもしれない。

野崎晃市(42)
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おひかえなすって 手前 生国は野州 栃木でござんす

薩摩の黒豹=飯山一郎

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