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台湾で今も愛される日本人技師 八田與一 「日本の偉人100人(上)」 寺子屋モデル 致知出版


台湾で今も愛される日本人技師 八田與一


中国には「井戸を掘ってくれた人を忘れない」という諺があるそうです。同じく日本統治時代の朝鮮にも全財産を投じて巨大な水力発電ダムを建設した野口遵がいました。

今後は、日本の誠意を逆手にとる韓国よりも、中国・台湾とのWIN-WIN体制を作り上げる必要があると考えます。


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日本の偉人
八田與一はった・よいち/一八八六~一九四二/石川県生まれ

 度肝を抜く壮大で独創的なダム建造

 八田與一という人物をご存じでしょうか。日本ではあまり知られていませんが、台湾では中学生向けの教科書にも紹介されるほど有名な人物なのです。

 八田は明治十九年(一八八六)二月二十一日、現在の石川県金沢市で生まれました。東京帝国大学で土木を学んだのち、当時日本の領土であった台湾で土木技師となり、〝鳥山頭(うざんとう)ダム〟という巨大なダムを建設しました。当時のアジアでは最大の灌漑事業で、このダムの水によって潤った土地は香川県とほぼ同じ広さに当たる約十五万ヘクタール、水路の長さは地球の約半周分に当たる約一万六千キロメートルに達し、およそ六十万人の農民を救ったといわれています。


 当時、台湾南部の嘉南(かなん)地方にはダムや用水路が整備されておらず、洪水と干ばつがしばしば起こったため、農業には不向きになった荒れ地が広がっていました。農民たちからの度重なる要望を受けた台湾総督府は、ダムの建設を検討しはじめます。また、農業用水の確保のためだけでなく、電力の確保や、電力を消費する製糖業や製塩業などの産業のためにもダムの建設が強く求められていました。

 三十二歳の若さでこの計画に取りかかった八田は、徹底的な現地調査の末、烏山頭という場所にダムをつくることを考えます。新人時代から「大風呂敷」と呼ばれていた八田が計画したダムは、周囲の度肝を抜く壮大で独創的なものでした。


 日本人・台湾人の別ない家族同然の付き合い

 まず、ダムの工法には「セミハイドロリックフィル方式」と呼ばれる当時最新のものを用いました。アジアで導入された例はなく、アメリカでもこれほど大規模なダムでは用いられたことがない方式でしたが、徹底的な研究を重ねた八田はこの工法が最善のものだと確信し、これを採用することを決断したのです。

 また、当時は人力での工事が主流でしたが、いち早く大型土木機械を導入して工事を進めた点も独創的でした。工事全体の予算の約四分の一を機械の購入費用に充てようとする八田に対して、多くの人は反対しましたが、八田は「高い機械を導入することで工事の期間が短くなれば、それだけ早く農作物が収穫でき、金を生む。完成が早くなれば結果的に安上がりになる」と考え、機械による工事を進めたのです。

 さらに、「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」と考えた八田は、工事現場に作業員が住むための村をつくり、商店や市場、野球場やテニスコートなどの娯楽施設、銭湯、学校、病院などを整備しました。作業員の生活だけでなく、その家族のことも考えての環境づくりでした。

 八田自身も家族を呼び寄せてそこに住み、休みの間には作業員たちとゲームに興じるなど、家族同然の付き合いをしました。日本人、台湾人の分け隔てなく付き合い、人事や昇給も平等にした八田を、作業員たちも心から慕いました。


 今もダムを見守る銅像

 大正九年(一九二〇)の建設開始から十年を経て、昭和五年(一九三〇)に烏山頭ダムは完成しました。その間、事故や病気などで百三十四人が亡くなりました。ダムのほとりに建てられた殉工碑には犠牲者とその家族の名前が日本人、台湾人の区別なく刻まれました。

 烏山頭ダムにより、かつて不毛の地だった嘉南地方には水が行き渡り、台湾一の穀倉地帯へと変貌を遂げることになりました。また、潅漑によって水が行き渡った土地の値段が二倍にも三倍にもなり、豪商地方の農民たちの生活は大きく向上しました。

 八田はその後も士木技師として台湾や中国などの水利事業に携わりました。そして、フィリピンでのダム建設に従事するために現地に向かう洋上で、アメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて、乗っていた船が沈没し、殉職を遂げました。昭和十七年五月のことです。

 八田の妻の外代樹(とよく)は、敗戦後日本人が台湾から引き揚げていく中で、夫が精魂込めてつくったダムから離れがたかったのか、ダムの放水路に身を投げて自ら命を絶ちました。

 八田夫妻の死を悼んだ嘉南地方の農民たちは、烏山頭ダムの見える小高い丘に二人の墓をつくりました。また、墓のすぐ側には物思いに耽りながらダムを見つめる八田の銅像が建立されました。

 嘉南地方の人々の八田に対する敬意は今も変わることなく、八田の命日である五月八日には毎年欠かさず慰霊祭が執り行われています。



【偉人をしのぶ言葉】

「誰もが八田さんを尊敬していたよ。なかでも本島人と呼ばれていた台湾人の作業員からは慈父のように慕われていた。八田さんの元で働いたことを生涯の誇りだと思っていた人は数えきれないほどいるし、私たちもそうした思いを受け継いでいる」
(土地の古老の言葉/『世界が愛した日本2』)


(参考文献)
                        
李登輝著『「武士道」解題 ノーブレス・オブリージユとは』小学館

蔡焜燦著『台湾人と日本精神(リップンチェンシン)-日本人よ胸をはりなさい』小学館文庫

産経新聞「日本人の足跡」取材班『日本人の足跡 世紀を超えた「絆」を求めて』産経新聞ニュースサービス

四條たか子著・井沢元彦監修『世界が愛した日本2』竹書房
p-97


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