散りゆく者たちがリクエストした“湖畔の宿” 神州の泉 H.25/04/06

“湖畔の宿”
神州の泉 2013年4月 6日 (土)
高名な映画女優であり、数々のヒット曲を出した歌手でもあった高峰美枝子さんは、大正7年に生まれ、戦前戦後という激動の時代を潜り抜けて活躍、平成2年にこの世を去った。高峰美枝子さんが歌ってヒットした曲に「湖畔の宿」(作詞:佐藤惣之助、作曲:服部良一)があった。この歌が発表されたのは真珠湾攻撃前年の昭和15年(1940年)だった。
http://youtu.be/SWdaFdBVbB0 アップロード日: 2012/02/13
神州の泉は十代だったか二十代だったか忘れたが、初めてこの歌を聴いたとき、「何て、暗くて淋しい歌だろう」と、ある種の拒否感情が湧いたことを今も覚えている。まるで、誰も来ない山奥で独りっきりになり、霧が漂う中で卒塔婆(そとうば)を見ているような感じがしたのである。寂しさの極致だと思った。それほど、歌詞と曲調が淫隠滅滅(いんいんめつめつ)になっていると思った。
ところが、どういうわけか、五十路に差し掛かった辺りからこの歌がとても好きになっていた。ときどき聴きたくなる大事な歌の一つになっている。聴くと相変わらず気持ちは落ち込むが(笑)、なぜか静かな気分になって安らぐのである。つまり嫌な落ち込み方ではなく、そこはかとなく和(なご)む落ち込みなのである。年齢を重ねると知る世界というものがある。ヨハン・セバスチャン・バッハの晩年の「フーガの技法」もそういう曲だった。19歳のとき、初めてこれを聴いたとき、陰鬱な森の中にひっそりとたたずむ墓石が暗緑色に苔むした情景を思い浮かべ、かなり気が滅入ったことを覚えている。
ところが10年も経たないうちにこの「フーガの技法」がクラシック音楽の中では最も好きな曲になっていた。高峰美枝子さんの「湖畔の宿」もこれと似た経緯をたどっている。
「湖畔の宿」(作詞:佐藤惣之助、作曲:服部良一、唄:高峰美枝子)
1 山の淋しい湖に
ひとり来たのも悲しい心
胸の痛みに耐えかねて
昨日の夢と焚き捨てる
古い手紙のうすけむり
2 水にたそがれせまる頃
岸の林を静かに行けば
雲は流れてむらさきの
薄きすみれにほろほろと
いつか涙の陽が落ちる
(台詞)
「ああ、あの山の姿も湖水の水も、
静かに静かに黄昏れて行く……。
この静けさ、この寂しさを抱きしめて
私は一人旅を行く。
誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて、
幼な児のような清らかな心を持ちたい。
そして、そして、
静かにこの美しい自然を眺めていると、
ただほろほろと涙がこぼれてくる」
3 ランプ引き寄せふるさとへ
書いてまた消す湖畔の便り
旅の心のつれづれに
ひとり占うトランプの
青い女王(クイーン)の淋しさよ
「二木紘三のうた物語」様はこう書かれている。
「感傷的で淋しい詩とメロディが戦意高揚を損なうということで、当局は発売禁止にしましたが、国民が歌うのを止めることはできませんでした。歌手たちの戦地慰問で、兵士たちからのリクエストが圧倒的に多かったのがこの曲だったといいます。とりわけ、特攻隊の基地で、若い航空兵たちが直立不動でこの歌を聞き、そのまま出撃していった姿が忘れられないと、高峰三枝子は幾度となく語っています。
『この静けさ、この寂しさを抱きしめて私は一人旅を行く。誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて……』の部分がとくに兵士たちの胸に響いたのでしょう。」
大本営が国威発揚、戦意高揚を謳っているとき、「湖畔の宿」は感傷的で淋しくて勇武にそぐわないと発売を禁止したようだが、戦地慰問で兵士たちのリクエストが一番多いのがこの曲だったという。高峰美枝子さんが特攻隊の基地に慰問に行った時、若い特攻隊員たちは直立不動でこぶしをぎゅっと握りしめながら「湖畔の宿」を聴き、翌朝、不帰の出撃に出たという。
特攻(特別攻撃)という自爆型の戦法が洗脳の産物だとか、狂気の無駄死にだと思っている人が多くいるが、考えを改めたほうがいいと思う。特攻した兵士たちはほとんどが、20代のあどけない若者たちであった。国の未来を背負う大事な若者を死なせてまで攻撃する戦法は確かに言葉を失う。特攻を統率した責任者である大西瀧治郎中将が、『特攻は統率の外道』であると言ったことは有名だが、敗戦の翌日未明に彼が自死する直前に書いた遺書には、自分の死を以て部下の英霊とその遺族に謝意を表し、一般青年たちに対しては、「諸士は國の寶なり 平時に処し 猶(な)お克(よ)く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を盡(つく)せよ」と書いている。
「統率の外道」を安易に評価するつもりはないが、大西瀧冶郎中将が部下を特攻死させたくなかった気持ちが遺書に強く表れている。それは残された青年たちに託した希望に表れている。特攻という戦法を取らざるを得ないところまで戦局が進んだことが悲しいのである。 靖国神社で発行されている「英霊の言乃葉」など、特攻隊員の遺書を読むと、死を目前にした彼らの実に静かで清明な心境が伝わってくる。何の気負いも何の陶酔もない。ただ、端然として家族や郷土に感謝と別れを述べ、明朝の出撃に静かに備えている。日本人がそれまで過ごした悠久を凝縮したアルカイックスマイルを浮かべて。この人たちが「湖畔の宿」を聴きたがったというのは、この歌が兵士たちの心境にぴったりと合ったからだろう。出撃前の彼らのモノクロ写真が残っているが、屈託のない彼らの微笑みを見るたびに、戦後から今までは何だったのだろうか、これが彼らの望んだ未来なのかと考え込んでしまうことがある。 戦後の日本人は彼らの尊い散華を決して忘れずに、日本を独立自尊の良い国にする責務がある。