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<日中友好に捧げた宰相・大平正芳>  ジャーナリスト 本澤二郎 H.25/05/20

★阿修羅♪ 掲示板

<日中友好に捧げた宰相・大平正芳>


 日中友好は大平の長い間の悲願と、本人の執念の努力の賜物であった。
 こんな事例はほかにないだろう。政治家・大平の偉大な実績なのである。

「大平さんは、日本人が不得手とする隣人への思いやりが一番ある人だった」



「ジャーナリスト同盟」通信 ジャーナリスト 本澤二郎 2013年05月20日

<日中友好に捧げた宰相・大平正芳>   

日中平和友好条約が締結されてから、今年2013年8月に35周年を迎える。条約締結時の首相は、安倍の父親を後継者に指名した福田赳夫である。それなのに、歴史認識などで北京に対して、冷水を浴びせかける極右丸出しのナショナリスト・安倍首相である。しかし、友好条約が消えることはない。自民党・保守本流の心血が注がれた、かくかくたる外交実績だからだ。


(自民党の源流)

 自民党の源流は、戦後の第1回目の総選挙で勝利した鳩山・自由党である。同党の選挙資金は、なんと敗戦直前に、日本軍特務機関が中国で略奪、上海から飛行機で持ち出したプラチナ類だった。戦後右翼のドンといわれた児玉誉士夫が、自由党総裁の鳩山一郎邸に持ち込んだものである。

 しかし、ワシントンが最初に目を付けた政治家は、鳩山ではなく、英米派外交官で、軍部に敵対してきた吉田茂だった。占領中の日本の宰相・吉田は、荒廃した戦後経済の復興に取り組んだ。悲願の独立(サンフランシスコ講和条約)を果たしたものの、米軍を常駐させる日米安保条約を呑まされた。

 彼の政治的成果は、経済復興と9条の平和憲法を死守した点である。後者が災いして、造船疑獄事件で退陣に追い込まれる。ワシントンは、反共政権作りを目指して鳩山と岸信介(東條内閣の商工大臣・A級戦犯容疑者)を擁立する。

 ここにおいて戦後保守は、リベラル・自由主義派の吉田・保守本流と、戦前の天皇制国家主義を体現する岸の保守傍流が、常に拮抗する2大潮流が誕生する。両者による台湾・中国をめぐる攻防が、政局を左右することになる。大平は、吉田直系の池田勇人側近として池田内閣で頭角を現したが、そこには遠大な夢・理想が存在した。

(岸信介外交に対抗)

  リベラル・保守本流政治は、中国敵視政策をとらない。台湾とも中国とも友好関係を維持する立場だ。他方、国家主義の傍流は、台湾一辺倒・反中国政策を露骨にして、ワシントンの右派政権と深く結び付く。親米反共路線である。

  吉田退陣の後を引き継いだ鳩山内閣は、ワシントンが求める9条改憲に失敗すると、戦後外交の課題となっていたソ連との国交(日ソ国交回復)を実現して役目を終えた。続く石橋内閣は、日中友好に舵を切ろうとしたが、病に倒れて1カ月で退陣、代わってワシントンが期待した岸が政権を担当した。岸内閣は、ワシントンの意向を受けて日米安保改定を強行、同時に反中国政策によって、日中の民間交流も挫折させた。
  大平正芳の日中友好戦略は、石橋構想が不運にも挫折、岸の反中政策を契機に浮上したのではないだろうか。

(池田勇人内閣で外務大臣)


 大平は池田内閣誕生に一役買った後、池田内閣の番頭・官房長官に就任、内閣の全般に目を回すことになる。水面下で日中の民間交流の後押しをして、岸内閣で壊れた橋を修復した。そして、そのための推進役になるために外交の責任者(外務大臣)にも就任した。

 大平戦略が羽ばたく場面である。しかし、支えてきた池田が病に倒れると、岸の実弟・佐藤栄作内閣が実現してしまった。こうして日中関係は再び凍結状態に追い込まれてしまった。

 池田の先輩・前尾繁三郎を擁立、政権担当を狙うが、体調がよくない前尾に、それは無理なことだった。やむなく自ら派閥の大将になるために汗をかく。同時に佐藤派の実力者・田中角栄との同盟に力を尽くす。

 大平は派閥内で前尾側近と攻防を繰り広げる。他方、田中も佐藤派の後継に名乗りを上げる。共に支えながら自民党の主流を目指すことになる。そして遂に佐藤後継に大角連合が勝利した。

(田中内閣で外務大臣)

 72年7月7日に田中内閣が誕生すると、大平は自民党幹事長の椅子を蹴飛ばして2度目の外相に就任した。大平の悲願が実現する瞬間を迎えたことになる。岸・佐藤・福田派の抵抗にひるむ田中を励まして、3カ月後に日中国交回復を実現した。

 田中の決断も立派だったが、大平の執念なくして東京と北京が結ばれることはなかった。池田内閣と田中内閣の2つの政権を実現させ、そこでの外務大臣就任を経ての大事業の実現であった。

 筆者は72年から大平政治を見聞する機会を手にしたが、大平の日中友好戦略について気付かなかった。本人が、それを全く口にすることが無かったからである。自己顕示欲の塊のような政界で彼は異例の政治家だった。

 政治の変化は、多く偶然が左右するものである。しかし、日中友好は大平の長い間の悲願と、本人の執念の努力の賜物であった。こんな事例はほかにないだろう。政治家・大平の偉大な実績なのである。

(大平の日中友好外交)

 大平政治を一言で語るとすれば、それは日中友好に生涯を捧げ、それを見事に果たした、という点であろう。この目標に取り組んだ日本人は、多く存在したが、日本政府の外交責任者として、遂には首相として、日本を代表してこれを断行した政治家は、大平のみである。それゆえに、戦後外交の最大課題を断行することが出来た。

 それこそ命がけの決断と実行であった。彼が田中を信用し、最初に田中内閣を実現させ、そうして自ら外交責任者になることで国交正常化を実現した。むろん、当時の新聞テレビや経済界も主流が支援した。与野党の大勢も。国際政治も味方したことは言うまでもないのだが。

 それでも日本に大平が存在したから実現した。北京には周恩来がいたからでもある。72年はまるで大平の夢実現の環境が整っていたことに驚く。

 そうはいっても、東京には台湾派の岸とその仲間の福田派が徹底抗戦した。不穏な空気も覆っていた。蒋介石の対日工作も凄まじかった。そのために、一端は田中も時期を遅らせようとしたほど官邸内は緊迫していた。大平が手を抜けば、どうなっていたのか?天は大平に味方した。

 国交正常化後に日中航空協定を締結するが、この場面で台湾派は石原慎太郎ら極右の政治集団「青嵐会」を結成して、体当たりしてきた。このグループには、その後に首相になった森喜朗もいた。彼は岸に心酔する人物で、首相時代に「日本は天皇を中心とする神の国」と公言し、多くの人々を驚愕させた。

 森の後継が小泉純一郎、その後継が安倍晋三である。日本神国論者は靖国参拝派・東京裁判否定派・過去の侵略戦争を正当化する、正に極右思想の持ち主なのである。岸の系譜からして、それは当然であろう。

(日中平和友好条約の締結)

 72年に国交回復を果たした大平の次の大仕事は、平和友好条約の締結であった。そうすることで、両国の友好関係を国際法的に確立することだった。しかし、金脈問題で田中内閣は退陣、その後にワシントンからロッキード事件が東京に投げ込まれてきた。政権は三木内閣を経て、福田内閣に移行していく。

 中国との関係正常化やソ連にも手を出す田中・資源外交に鉄槌を食らわせるワシントンの意思そのものだった。それは9条改憲を拒絶した吉田茂を失脚させたCIA工作の、いわば第2弾であった。今回の小沢事件は、日米対等を実現しようとしたことへの、ワシントンの返礼である。第3弾である。

 依然として東京を支配するワシントンを印象付けている。

 田中失脚で足元を突き崩された大平は、態勢立て直しのため仇敵・福田と提携するという予想外の戦略を採用した。福田内閣を誕生させ、自ら幹事長に就任、背後で田中と連携して外相の園田直を味方に引き入れた。いうところの福田包囲網を確立した。

 園田と田中の連絡役は、外務政務次官で田中側近の愛野興一郎だった。他方で、大平は、大平を心酔する奈良市(西安と姉妹都市)の鍵田忠三郎を、密かに北京に密使として派遣した。そして対日外交責任者のリョウ承志と接触させ「平和友好条約の締結」を申し入れた。

 大平戦略は成功した。右翼的な福田内閣に対して、台湾派は抵抗できなかった。こうして大平は、大きな日中友好の階段を駆け上ってしまった。

 民間外交と国交回復の場面では外務大臣、平和友好条約を与党幹事長として実現した。そして最後の大仕事が、侵略戦争による空前絶後の損害を放棄してくれた中国への恩返しだった。

(大平内閣とODA)

 大平は、自ら政権を担当すると、恩返しのために北京を訪問した。79年12月だ。前年に復権した鄧小平が、中国を一変させる改革開放政策を打ち出していた。これをいかにして開花させるのか。そのために、日本に何が出来るのか。

 政治闘争に明け暮れていた当時の中国は、本当に貧しかった。大平訪中に初めて同行記者として北京の大地に立った筆者は、それを膚で感じたものだ。大平は、北京に日中友好病院の建設を約束した。同時に中国のインフラ整備のために政府開発援助(ODA)を申し出た。

 90年代から大きく開花した中国経済は、このODAがモノをいったものである。このことに日本人は誇りをもって中国人に接することが出来る。ここにおいて大平戦略は完結したことになる。

(肖向前の証言)

 大平の中国友好戦略は、あたかも山から絞り出た水滴が、谷を下り、小川になり、さらに川になり、大河となって大海へ吸い込まれてゆく様に似ている。この清き流れを詳細に知っていた中国人は、元外交官で中日友好協会副会長の肖向前である。

 6・4事件後に孤立する中国に対して、世界の新聞テレビは批判を繰り広げていた。そうした場面で、筆者は中国人の思いを活字にした。それが「中国の大警告」(データハウス)。中国社会科学出版社からも翻訳出版された。これを読んだ肖向前は「あなたは中国の真の友人」といって筆者を懐に入れてくれた。

  生前によく彼の自宅に足を向けた。当初は王府井近くの四合院、次いで安定門近くのマンションだった。彼は、日本の政治家との結びつきが深かった唯一の中国人だった。日本人ジャーナリストが知らない秘事を直接、当事者と周辺から見聞していた。

  中曽根康弘との交流も深く、長かった。彼のために周恩来との会見を用意してあげたこともある。それは「軍国主義者」という、中曽根にまとわりつく悪しき評価を消却するためだった。

  彼は天下人になると、靖国神社を公式に参拝して中国人に衝撃を与えた。裏切られた肖向前は「中曽根は面白い人物」と中国人らしい言葉で、筆者に向かって酷評した。宇都宮徳馬は、改憲に走る中曽根を「大馬鹿野郎だ」と評した。

 筆者の政治思想は、宇都宮の影響を最も受けている。中国人では肖向前である。彼は「日本を代表する偉大な国際的政治家は大平さん」「大平さんは、日本人が不得手とする隣人への思いやりが一番ある人だった」と評した。

 中国と中国人を愛した大平は、リベラルを信条とした哲人政治家としても知られている。国家主義に傾倒することはなかった。過去を正当化するということなど想定できなかった。戦争の出来る日本改造に改憲を叫ぶことなどなかった。中曽根とは正反対だった。大平の内政の夢は田都市国家だった。

2013年5月20日記

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