<大平正芳の日中友好> 本澤二郎の99北京旅日記(8) H.25/06/12

<大平正芳の日中友好>
命を懸けた政治人生
「この身が八つ裂きにされようともやり抜く」と絶叫したのだ。
命を捨てる決意表明でもあった。
いいことをするのに命がけという日本政治に驚くほかないが、これが当時の政権与党内部の攻防戦の実態だった。
結果は、大平の意思が貫かれ、その通りとなった。
命を捨てる決意表明でもあった。
いいことをするのに命がけという日本政治に驚くほかないが、これが当時の政権与党内部の攻防戦の実態だった。
結果は、大平の意思が貫かれ、その通りとなった。
「ジャーナリスト同盟」通信 本澤二郎の99北京旅日記(8) 2013年06月12日 11:02
<大平正芳の日中友好>
2日目の大平学校での講義(6月7日)は、政治家・大平正芳の日中友好にかけた政治人生を伝える機会ともなった。こんな幸運も珍しい。当時の大平を語れる日本人も中国人もいなくなってしまっている。大平学校には北京大学の院生その他、日本問題に興味を抱く学者らも姿を見せてくれた。朝5時起きで、バスや地下鉄を乗り継いで駆け付けてくれた日本人の日本語教師も参加してくれた。この日、これまでの日程を具体化させてくれた郭連友教授と初めて出会うことが出来た。あいにくの土砂降りの悪天候が北京に襲いかかっていたが、講義は順調に進行した。
<寡黙の政治家>
人間の特性の一つは、やっていないことを「やった、やった」と宣伝するらしい。特に政党・政治家がその典型であるが、大平はその反対だった。中国きっての日本の政治家通の肖向前は「日本人の欠点は思いやりがないことだが、大平さんは違った。寛容の人だった」と証言している。その通りの大平像を具体的に紹介した。
大平と周恩来の存在が72年の関係正常化を果たしたものだが、日本の代表が大平だった。沈思黙考型の政治家の存在に日中両国の人民は感謝すべきだろう、とも思う。
72年に政治記者として自民党大平派を担当した筆者である。それゆえに、今日まで日中友好の旅を続けて来られた原動力は、偶然が幸いしてくれたものだ。福田派を担当した記者の多くは、今も中国嫌いに徹している。不思議なのだ。筆者には、宇都宮徳馬の存在が圧倒している。彼の知性・徳性が前後左右の分からないジャーナリストを善導してくれたことである。
大平と宇都宮という先人が、中国との出会いを作ってくれた。その大平は黙して語らない。ここがすごいところである。
<命を懸けた政治人生>
「本物の政治は命がけなのだ」と宇都宮はよく言っていた。田中角栄もそうだった。いまの小沢一郎や鳩山由紀夫も、このことを認識しているはずだ。しかし、現実には野田聖子がいうように「政治家はいい加減」な連中ばかりである。悲しいが、本当なのである。そして、それは中国の官僚にもいえるらしい。上海のテレビ記者が、今回も訴えていた。「まずは自分のことばかり」というのだ。彼らの腐敗も目に余るものがある。
大平は、田中内閣の外務大臣として72年9月、日中共同声明をまとめ上げた後、航空協定の締結へと進んだのだが、岸と福田派、そして石原や森らの青嵐会が真っ向から実力で反対してきた。国会や自宅周辺には、右翼団体の街頭宣伝車がひっきりなしに襲いかかっていた。右翼の雄叫びは、まるで東京が無法地帯であるかのように思わせた。
政府や党執行部に揺らぎが見えてきた。その時の大平発言が、あたかも暗闇をつんざくように鳴り響いた。「この身が八つ裂きにされようともやり抜く」と絶叫したのだ。命を捨てる決意表明でもあった。いいことをするのに命がけという日本政治に驚くほかないが、これが当時の政権与党内部の攻防戦の実態だった。結果は、大平の意思が貫かれ、その通りとなった。
<勇気をくれた長男の死>
大平にこれほどの勇気をくれた背景を、筆者は最愛の息子の死だったと理解している。
72年当時、大平の家庭事情を全く知らなかった。大平家と親類関係にあった鈴木秘書が、後に教えてくれたのだが、大平は長男・正樹を学生時代に亡くしている。「弔問に訪れた田中角栄さんを前にして、あの大平先生がおいおいと大声を上げて泣いていた」と小国秘書も述懐している。「大平は政治家をする価値を喪失するほどの衝撃を受けた」と鈴木も語っている。
息子に先立たれることの悲哀が、大平に命がけの政治人生をくれたものかもしれない。そう思いたい。息子の死とはそういうものなのだ。
大平の日中友好の旅の第一ラウンドは、先輩の池田内閣を実現することだった。官房長官・外務大臣を歴任する過程で、岸前内閣が壊した日中民間交流を復活させた。次が田中内閣を誕生させて、自ら外務大臣として正常化を果たすことだった。次いで、台湾派の福田内閣を発足させ、自ら自民党幹事長として平和友好条約を締結することだった。今から35年前のことである。
最後の詰めが、日本の総理大臣として中国の改革開放政策の起爆剤となるインフラ整備のためにODA(政府開発援助)を提供することだった。その時の79年12月の大平訪中が、筆者の大陸への第一歩となった。80年に台湾派と連携した中曽根・三木派の反主流連合の攻防戦の渦中、無念にも命を落としてしまった。だが、その年に大平学校が設立される。
その運命の場所で、こうして大平を語れる幸運に感謝したい。中国・国家観光局で働いていた陳輝君が、中国国際放送局の王小燕さんを紹介してくれた。彼女が母校・大平学校の主役である郭さんにつないでくれた。不思議な運命の糸が、筆者を大平学校へと導いてくれたことになる。くしくも99回目の訪中記念に合わせてくれた。
<花の28期生>
今回、筆者を接待してくれた生徒らは、大平学校28期生である。花の28期生である。
郭さんが3人を選抜、それぞれ役割を分担、配慮ある対応をしてくれた。彼は何度も「また気軽に寄ってもらいたい」とありがたい声をかけてくれた。1期生の李薇さんも「私は幸運だった」と言っていたが、郭さんも幸運な人である。そう思う。大平学校で大平の意思を継承する人材を育成できるのだから、実に幸運だといえる。
筆者も幸運である。歩いてきた自らの人生を、こうして語れるということ、それを聞いてくれる人との出会いである。日本では機会が失くされてしまったが、中国の大地では聞いてもらえる。目を輝かせながら、いちいち頷きながら聞いてくれた学生も印象に残った。大平学校もまた、中国を代表する人材の城である。
郭さんを補佐して学内を案内してくれた、学生に経済学を教える丁紅衛さんにも出会えた。名前からは想像も出来ない柔和な方だった。平和な家庭を築いているはずだ。教師と生徒が一体となって大平学校は活動している。またの機会が楽しみだ。筆者に夢と希望をくれる大学院である。
北京外国語大学には学生が約1万人。中国では規模が小さい方だが、それにしても筆者にとって大きい。
北京大学・清華大学・南開大学・上海交通大学・外交学院・上海外国語大学・湖南大学・同済大学など、大学めぐりも板についてはきたが、繰り返し筆者を受け入れてくれる大学は、北京の外交学院である。新たに大平学校も付け加えたい。いつも楽しそうな笑顔を振りまいている郭さんが、ここにいる限りは行ってみたいものだ。
そういえば、メールで同済大学からも声がかかってきた。上海である。
2013年6月12日記