<日本の暴力団と侠客> 本澤二郎の「日本の風景」(1324) H.25/10/09

<日本の暴力団と侠客>
「ジャーナリスト同盟」通信 本澤二郎の「日本の風景」(1324) 2013年10月09日
<日本の暴力団と侠客>
みずほ銀行と暴力団の深い関係が露呈、目下、話題になっている。この種の事案は特別なものではない。多かれ少なかれ、どの銀行でも行われている、と見られている。反社会的集団とされる暴力団を忌み嫌う社会は健全だが、いざ目の前に現れたりすると、妥協する市民ばかりである。暴力団に詳しい元自民党員が電話してきて、警察行政の矛盾を非難した。
<右翼暴力団と政界>
暴力を手段にして、善良な市民に襲いかかる暴力団を許容する社会は不健全である。日本はこの点で100点満点は取れない。それより深刻な問題は、右翼と暴力団が一体化していることに、この国のありようが問われている。
右翼人士と暴力団の深い関係は、いわば常態化してきている点にある。政治にも介在している。たとえば、政治家の典型が中曽根康弘で、彼は戦後の右翼暴力団の総元締めになった児玉誉士夫と癒着してきた。2人の仲を取り持った人物が、読売のナベツネというのも恐ろしい。児玉に匹敵する右翼である笹川良一は、特に福田赳夫と近かった。
中曽根以前の児玉は、岸信介・鳩山一郎・河野一郎と深い関係を結んで政界に影響力を行使した。この児玉を操っていたのが米CIAだった。ナベツネの親分の正力松太郎もまた、CIAのエージェントで知られた。
日本の原発路線は、正力と中曽根が敷いたものである。児玉の莫大な資金は、敗戦直後に上海から持ち出した略奪物資だ。その半分が自民党の前身の自由党の選挙資金に化けた。
安倍の祖父・岸も児玉の世話になっている。
<警察行政の矛盾>
政界の中枢が右翼暴力団と結び付いてきた日本である。これでは取り締まりなど出来ない。それどころか60年安保の学生・市民・労働者による国会包囲デモに対して、岸は児玉の右翼暴力団を使って対抗した。
並行して岸は首相として、赤城防衛庁長官に対して「自衛隊を出動せよ」と迫ったが、赤城は辞表を懐に入れて抵抗した。彼のお陰で、自衛隊が市民に発砲することはなかった。
もしも、赤城以外の人物であったら?恐らく市民も犠牲になったはずである。この国会デモに学生として加わった加藤紘一・元自民党幹事長、池田行彦・元防衛庁長官は、政界のリベラル派を代表した。
いいたいことは、日本の暴力団を取り締まる側は、暴力団の存在を認知・指定しており、その結果、彼らを生かす、殺さずで、自ら血税を手にできる制度にしている。反社会的集団を徹底排除しない。そうすることで、右翼政治家や財閥が自己保存に彼らを悪用して、排除どころか活用しているという関係にある。電話の主の解説はその通りだ。
役人でさえも暴力団を使う。「霞が関の犯罪」(リベルタ出版)を取材中に暴力団が妨害してきた。予想外のことで、仰天してしまった。さっそく警視庁に連絡、智恵を借りた記憶がある。
<侠客へ変身せよ>
こどものころ清水次郎長の映画をよく見た。この人物はヤクザというよりも、侠客である。梁山泊で知られる中国でこの言葉が生まれたようだが、侠客は「強いワルをやっつけて、弱い市民を助ける」という、市民が理想とする人間像である。
本来は警察や検察の役目だが、現実はそうではない。庶民はワル者を退治する、この種の侠客映画にのめり込むことになる。
そこで、世の暴力団に「変身せよ」といいたい。多少の貧に耐えて、この侠客の道へと変身して、世のため人のために命を張るのである。たとえば日本の陸地と大気・海洋を汚染する大事件を引き起こしながら、海外に逃亡して悠々自適の暮らしをする東電首脳OBらに、なんらかの鉄槌を国民に代わって加える?存外、市民は歓迎するだろう。
法ではなく、政治に操られる捜査機関という現状を考慮すると、日本社会に欠けているのは侠客ではないだろうか。
<悪徳に挑む市民の味方>
ワルほどいい思いをしている社会は、とても健全といえない。真面目にこつこつと汗をかく正直人間が損をする。ワルが法務検察を牛耳る国は正常ではない。
日本は侠客を必要とする社会ではないだろうか。言論界も政界も腐敗しているのだから、善良な市民は侠客を羨望しているのかもしれない。
生かさず、殺さずの暴力団稼業から足をきれいさっぱり洗って、侠客に変身すれば、みな清水次郎長になれるだろう。山口組や住吉連合などより、はるかにいい人生が待っている。悪に挑む市民の味方となるのである。
2013年10月9日16時35分記
暴力を手段にして、善良な市民に襲いかかる暴力団を許容する社会は不健全である。日本はこの点で100点満点は取れない。それより深刻な問題は、右翼と暴力団が一体化していることに、この国のありようが問われている。
右翼人士と暴力団の深い関係は、いわば常態化してきている点にある。政治にも介在している。たとえば、政治家の典型が中曽根康弘で、彼は戦後の右翼暴力団の総元締めになった児玉誉士夫と癒着してきた。2人の仲を取り持った人物が、読売のナベツネというのも恐ろしい。児玉に匹敵する右翼である笹川良一は、特に福田赳夫と近かった。
中曽根以前の児玉は、岸信介・鳩山一郎・河野一郎と深い関係を結んで政界に影響力を行使した。この児玉を操っていたのが米CIAだった。ナベツネの親分の正力松太郎もまた、CIAのエージェントで知られた。
日本の原発路線は、正力と中曽根が敷いたものである。児玉の莫大な資金は、敗戦直後に上海から持ち出した略奪物資だ。その半分が自民党の前身の自由党の選挙資金に化けた。
安倍の祖父・岸も児玉の世話になっている。
<警察行政の矛盾>
政界の中枢が右翼暴力団と結び付いてきた日本である。これでは取り締まりなど出来ない。それどころか60年安保の学生・市民・労働者による国会包囲デモに対して、岸は児玉の右翼暴力団を使って対抗した。
並行して岸は首相として、赤城防衛庁長官に対して「自衛隊を出動せよ」と迫ったが、赤城は辞表を懐に入れて抵抗した。彼のお陰で、自衛隊が市民に発砲することはなかった。
もしも、赤城以外の人物であったら?恐らく市民も犠牲になったはずである。この国会デモに学生として加わった加藤紘一・元自民党幹事長、池田行彦・元防衛庁長官は、政界のリベラル派を代表した。
いいたいことは、日本の暴力団を取り締まる側は、暴力団の存在を認知・指定しており、その結果、彼らを生かす、殺さずで、自ら血税を手にできる制度にしている。反社会的集団を徹底排除しない。そうすることで、右翼政治家や財閥が自己保存に彼らを悪用して、排除どころか活用しているという関係にある。電話の主の解説はその通りだ。
役人でさえも暴力団を使う。「霞が関の犯罪」(リベルタ出版)を取材中に暴力団が妨害してきた。予想外のことで、仰天してしまった。さっそく警視庁に連絡、智恵を借りた記憶がある。
<侠客へ変身せよ>
こどものころ清水次郎長の映画をよく見た。この人物はヤクザというよりも、侠客である。梁山泊で知られる中国でこの言葉が生まれたようだが、侠客は「強いワルをやっつけて、弱い市民を助ける」という、市民が理想とする人間像である。
本来は警察や検察の役目だが、現実はそうではない。庶民はワル者を退治する、この種の侠客映画にのめり込むことになる。
そこで、世の暴力団に「変身せよ」といいたい。多少の貧に耐えて、この侠客の道へと変身して、世のため人のために命を張るのである。たとえば日本の陸地と大気・海洋を汚染する大事件を引き起こしながら、海外に逃亡して悠々自適の暮らしをする東電首脳OBらに、なんらかの鉄槌を国民に代わって加える?存外、市民は歓迎するだろう。
法ではなく、政治に操られる捜査機関という現状を考慮すると、日本社会に欠けているのは侠客ではないだろうか。
<悪徳に挑む市民の味方>
ワルほどいい思いをしている社会は、とても健全といえない。真面目にこつこつと汗をかく正直人間が損をする。ワルが法務検察を牛耳る国は正常ではない。
日本は侠客を必要とする社会ではないだろうか。言論界も政界も腐敗しているのだから、善良な市民は侠客を羨望しているのかもしれない。
生かさず、殺さずの暴力団稼業から足をきれいさっぱり洗って、侠客に変身すれば、みな清水次郎長になれるだろう。山口組や住吉連合などより、はるかにいい人生が待っている。悪に挑む市民の味方となるのである。
2013年10月9日16時35分記