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『文殊菩薩』  What?  Photo 末世の争乱近し.英雄出ず.ひたすら健康延命図るべし.

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古代山城は663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた大和朝廷が、防備のために西日本各地に築いたとされる。が、真相は?

下は、朝日新聞(2008-11-04)の記事。だが、朝日の「鯖」には残ってないようだ。私のHDDには残してある。日本建国に関する重要な記事だからだ。
663年、白村江の戦いに完敗し新羅と唐の連合軍に滅ぼされた百済国は日本列島に「国をあげて国ごと」避難してきた。
しかし、唐の追討作戦が恐ろしく、これに対処せねばならない。そのために築城されたのが「鞠智城」である。(この城名も意味深い。)
「鞠智城」は百済人がつくったのである。その後、百済人は「大和朝廷」を名乗ることになる。そうして「記紀」を書き上げていく…。「記紀」は唐に対する“めくらまし”である。これが「記紀」の本質であるが、この件は『てげてげ』で明らかにしたい。(飯山一郎)

熊本・鞠智城跡から百済の仏像
亡命貴族の援助裏付け
朝日新聞(2008-11-04)

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百済製とみられる青銅菩薩立像
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出土した百済製とみられる青銅菩薩立像
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古代山城・鞠智(きくち)城跡(熊本県山鹿市菊鹿町)。鞠智城は文献上、百済からの亡命貴族が技術指導して造ったとみられていたが、それを裏付ける資料だとしている。
 7世紀後半に造られた古代山城・鞠智(きくち)城跡(熊本県山鹿市菊鹿町)から、朝鮮半島の百済(くだら)のものと見られる青銅製の仏像1体が出土したと、熊本県教委が3日、発表した。鞠智城は文献上、百済からの亡命貴族が技術指導して造ったとみられていたが、それを裏付ける資料だとしている。

 仏像は「菩薩(ぼさつ)立像」で、高さ12.7センチ、幅3センチ。ヘソの前で物を持っている▽脚の下に台座に差し込むための太い「ほぞ」と呼ばれる部分があるなどの点が、7世紀後半に百済でつくられた仏像の特徴と一致するという。当時、国内では仏教が広まり始めたばかりで、一般の日本人が仏像を所有していた可能性は低く、県教委は「亡命百済人が持ち込んだ」とみている。

 鞠智城は広さ55ヘクタール。67年から発掘を始め、仏像は今年6月からの第30次調査の中で、城域北側にある、築城当時の貯水池跡から仰向けの状態で見つかり、文化庁などの専門家が鑑定していた。

 古代山城は663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた大和朝廷が、防備のために西日本各地に築いたとされる。六つの城跡が確認されているが、遺構から百済製とみられる仏像が見つかったのは初めてという。

 古代山城のうち福岡県の大野城、佐賀県の基肄(きい)城は665年築で、百済からの亡命貴族が建築に携わったとの記述が日本書紀にある。鞠智城も同時期に百済人の支援で造られたとの見方が定説だったが、裏付ける遺物はなかった。

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百済式山城を造ったのは

『続日本紀』文武天皇二年(698年)五月二十五日条
「大宰府をして、大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城を繕治(ぜんち)せしむ」
として、歴史に登場しますが、実際はもっと早い築城ですね。

朝鮮式〈百済)式山城なのは確かなようです。

天智が命令したといいますが実際は百済王の系統の誰かがめいれしたようです。

でなければ、百済高級武官が動くことはないでしょう。

その誰かが問題です。

私は扶余何とかという唐・新羅連合軍から見た戦争犯罪人が

中国の遺跡に墓誌にも「扶桑国に逃げ込んで懲罰を逃れている」とありますので

間違いな百済政権だと。
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