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北九州宗像市の宗像大社には「日本建国」の“秘史”が隠されている。 そのまた“トップ・シークレット”が、宗像大社の沖合約60Kmの洋上にある玄海灘の孤島「沖ノ島」に隠されている。 それは一体どのような極秘事項なのか?

電 称 倭 国 伝

筑紫の日向の高千穂の添山峯(英彦山)

北九州宗像市の宗像大社には「日本建国」の“秘史”が隠されている。
そのまた“トップ・シークレット”が、宗像大社の沖合約60Kmの洋上にある玄海灘の孤島「沖ノ島」に隠されている。
それは一体どのような極秘事項なのか? これに関しては『てげてげ』で明らかにしていくが、本稿はそのための資料である。
同時に「日本建国の秘史」を知るための格好の読み物である。 (飯山一郎)

神 郡 宗 像

 福岡県宗像(むなかた)市の沖合約60Kmの洋上に玄海灘の孤島「沖ノ島」がある。周囲4Kmほどの無人島で、宗像大社の沖津宮(おきつみや)が置かれ、宗像三女神の田心姫神(たごりひめのかみ)を奉り、神官一人が交替で詰めている。今でも女人禁制の島である。「お言わずの島」とも言われ、この島で見聞きしたことは、一切他言してはいけないとされ、一木一草一石たりとも島外に持ち出すことはできない。

沖ノ島
沖ノ島
 東西約1.5Km、南北約500m、周囲約4Km、最高標高243m。全島が宗像大社の境内地で、沖津宮(おきつみや)は島の南部、標高80mに位置する。毎年5月27日の大祭に200名程が、素裸になって海水で禊(みそぎ)の後、上陸できるが、基本的にこれ以外は上陸できない。

 昭和29年から学術調査が行われ、その結果、四世紀後半から十世紀初頭の祭祀遺跡で、中国製の青銅鏡や朝鮮半島製の金銅製馬具、金製指輪など、約十二万点の遺物が出土し、すべてが国宝と重要文化財に指定され、沖ノ島は「海の正倉院」ともいわれるようになった。

 日本書紀によると、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)に別れの挨拶に来ることを、高天原(たかまがはら)を奪いに来ると思った天照大神は、天の安川で、素戔嗚尊に誓約(うけい)を強いて、それぞれが生んだ子で、素戔嗚尊に悪しき心がないことを知る。このときに天照大神が生んだ三女神を、沖ノ島の沖津宮(おきつみや)、筑前大島の中津宮(なかつみや)、宗像田島の辺津宮(へつみや)に、天孫を助け奉るために「海北道中」に降ろしたと記している。これが宗像大社の祭神である。

宗像大社辺津宮宗像大社辺津宮 田心姫神(たごりひめのかみ)を沖ノ島の沖津宮、湍津姫神(たぎつひめのかみ)を筑前大島の中津宮、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を田島の辺津宮にそれぞれ奉り、三宮を総称して宗像大社という。三姫神を「道主貴(みちぬしのむち)」ともいう。

 福岡県宗像市田島

 「海北道中」は、朝鮮半島に通ずる海の道であるが、魏志倭人伝によれば、朝鮮半島から対馬・壱岐を経て松浦半島に至る、もう一本の海の道がある。こちらは対馬・壱岐ともに人が住み、港も整備され、もっと安全に航行が可能であったはずであるが、なぜこの道を使わなかったのか、検証の必要がある。

 弥生時代も後期になると、稲作技術の発達と、大陸からの渡来人の流入もあって、北部九州の人口が増えると、水田耕作地の不足が生じるようになる。そうしたとき、波穏やかな瀬戸内海がハイウェイとなって、多くの人民を近畿地方に送り込んで往った。

 その移住集団の長(おさ)の一人が、奈良盆地を制圧し新たな国を建国した。それが大和王朝であり、長(おさ)は後に「神武天皇」と称されることになった。三世紀後半のことである。

 広大な耕作地に恵まれた大和は、その後、急速に発展する。朝鮮半島に派兵を繰り返す筑紫王朝とは異なり、労働力にも余裕のある大和王朝は、あの巨大な前方後円墳をも築造するようになり、五世紀には出雲王朝、吉備王朝を併合し、宗主国の筑紫王朝をも凌ぐ勢力に育っていた。

 大和王朝は、本来「倭国筑紫王朝」から派生したものであり、大和に男大迹(おおど)(継体天皇、507年即位)が出現するまでは、筑紫王朝に従属していた。

 越国(こしのくに・北陸地方)を勢力基盤とした継体天皇は、瀬戸内海航路を手中にすると大陸交易への権益にも触手を延ばすが、これには宗像海人(あま)族の玄界灘航海術が必要不可欠であった。

宗像大社みあれ祭みあれ祭 
 毎年10月1日から3日の宗像大社放生会の初日に行われる「みあれ祭」は、宗像三姫神をのせた御座船のまわりを神送り船(供の漁船)が周回する荘厳な海上パレード。神送り船は玄界灘に雄飛した宗像海人族の残影て゜ある。

 福岡県宗像市神湊

 大和王朝の勢力は、物部氏の軍事力を背景にしたものであるが、「先代旧事本紀」によれば、遠賀川流域を中心にして宗像以東の九州北部は、物部氏の本貫地である。

 こうして大和王朝と宗像海人族は、密接に結びついていたが、倭国筑紫王朝の朝鮮半島政策は、親「百済」を基本とし新羅とは敵対し続けたため、「海北道中」の沖ノ島ルートは、宗像海人族を介した大和王朝と新羅の、いわば密貿易ルートであった。

 527年(継体天皇21年)に倭国筑紫王朝内に王位継承争いが起き、「葛子」を擁立して肥国の王(肥君)が蜂起し、これに胸形(宗像)と大和が呼応した。

 大和王朝は筑紫王家の王位継承争いに乗じて、その壊滅を目指すが、結局は糟屋(粕屋)の地を得るに止まった。

 「磐井の乱」以降は、肥(火)国王の傀儡政権となった筑紫王朝であったが、朝鮮半島政策は、以前と同様に親「百済」であり、新羅とは敵対し続けた。大和王朝の新羅との交易は、やはり沖ノ島ルートを使うしかなく、特に新羅船が交易品を携えて、九州北岸に近づくことは、大和王朝としても充分に警戒したに違いない。
 一方、胸形(宗像)王は、「磐井の乱」以降は倭国筑紫王朝内で、その地位は格段に向上し、やがて筑紫王家とも姻戚関係を結び、640年頃には、胸形(宗像)系の筑紫王を輩出するに至った。これが「大海人(おおあまと)」で、後に「白村江の戦い」で中国唐軍と戦った「薩野馬(さつやま・さちあま)」であり、672年の壬申の乱を経て「天武天皇」となる。

 日本書紀は「大海人皇子」は、「中大兄皇子(天智天皇)」の弟だと記しているが、これは天武天皇の皇位継承を正当化する意図によるものである。

 宗像の名の起こりを記した風土記逸文があって、そこに「大海命(おおあまのみこと)の子孫は、今の宗像朝臣(むなかたのあそみ)らがこれである。云々」というのがある。この「大海命(おおあまのみこと)」が日本書紀にいう「大海人皇子(おおあまとみこ)」のことであり、つまり「天武天皇」である。

 天武天皇の第一皇子で、「壬申の乱」の将軍となって戦う高市皇子(たけちのみこ)の母が、「胸形君徳善(とくぜん)の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)」であると日本書紀が記している。この「胸形君徳善」が、宮地嶽(みやじだけ)古墳の主であろうと推測されているが、古墳の規模と副葬品の豪華さは、明らかに天皇陵を示唆している。

宮地嶽神社宮地嶽神社

 宮地嶽古墳は宮地嶽神社の奥の院、不動神社になっている。全長23mの横穴式石室があり国内で2番目の長さで、明日香の石舞台古墳より長い。副葬品に金銅製の馬具・金銅製冠・金銅装頭椎大刀などがあり、通常の古墳では見られない豪華なもので、全て国宝に指定されている。

 福岡県福津市宮司元町

 日本書紀を読んでいると、「壬申の乱」後には外国使節を「筑紫で饗応した」等の記載が異常に増えるのに気がつく。これは「壬申の乱」後に、天武天皇は筑紫に戻ったのではないか、そして宮地嶽(みやじだけ)古墳の埋葬者ではないかと考える次第である。

 天武天皇陵は、奈良県高市郡明日香村の「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」に持統天皇と合葬されていることになっているが、天皇どうしを合葬する例は、この時期からおよそ600年以上も下がった後深草天皇(ごふかくさてんのう)1304年崩御に、子の伏見天皇が合葬される深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)までない。

 天武天皇が、倭国筑紫王朝の最後の大王であったことを、大和王朝の皇統の:継続性を書き綴らねばならない日本書紀には記せなかったのだ。

 こうして宗像は、「記紀」には「神代」の時代から登場し、古代には伊勢・出雲などと共に、「神郡(しんぐん・かみのこうり)」として特別扱いされることになった。

京都御所の宗像神社京都御所の宗像神社 京都御所の宗像神社は、平安京遷都の翌年(795年)に桓武天皇の命で、藤原冬嗣が祀ったものである。

 桓武天皇の平安京遷都は、天武天皇系勢力が集まる大和から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったともいわれる。天武天皇の祟りを恐れた建立なのかもしれない。

 「神郡」制度は、681年に天武天皇が律令制定を命ずる詔の発令によって、701年に完成した「大宝律令」によるものと考えられるが、「神郡」の文献初見は、「日本書紀」持統天皇6年(692年)であるので、「神郡」の制定は天武天皇(686年崩御)の存命中に行われたと思われる。

 「『令集解』所収養老7年(723年)太政官処分」で全国に8神郡(筑前国宗形郡・伊勢国渡相郡・伊勢国竹郡・安房国安房郡・出雲国意宇郡・常陸国鹿島郡・下総国香取郡・紀伊国名草郡)を確認することができる。

 また、「続日本紀」文武天皇2年(697年)に、筑前国宗形郡と出雲国意宇郡に、郡司の同一氏族による連任を許す記事があって、養老7年(723年)までには他の6神郡も同様の記述があるが、特に宗像氏族と出雲氏族には特別の配慮がなされたことが窺えるのである。

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天武の子孫 関東へ

光仁以後、百済系とされるようですが、桓武による天武系子孫の排斥に繋がるものかと見えるものが、807年にもありました。
流山市の駒木の諏訪神社には、そのような由来を示す記載がありました。
社伝によると大同2年(807年)に、天武の子 高市皇子の後裔が移住し、この地を永住の地と定めたとあります。
当地開発の守護神として、信州の諏訪大社 南方登美 から分祀・創建されたとされる。などとあります。


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