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「日本は明治10年まで混浴だった!?」 この頃の日本人と今の日本人は人種が違う? 3年前までの日本人と今の日本人も随分ちがう! 大きく変わってしまった!

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この「jproject」というブロガーは極めて優秀な人なのだが…,今年の春頃,末期癌だと言っていた.いまはどうされてるのか?心配だ. (飯山一郎)

日本は明治10年まで混浴だった!?     2013年03月16日19:04

春画などで混浴場において湯船から上がろうとする娘さんに悪さをしょうと手を伸ばす職人などの絵が描かれています。
混浴

まあ、最近は私が何を書こうが世の中変わるわけではなし、安倍を見るたび、書く気力も徐々に薄れてきてしまいましたが、誰に遠慮がいるじゃなし、で今後はそんな事書いたら元も子もないんじゃない?位の事を書こうかと思います。

さて、前稿で書きました「日本人は明治維新まで宗教観をもっていなかった。」ですが、それを証明するのに一番判りやすい事例があるのですが、これを言うと良識のある方は皆嫌な顔をします。
まあ、いくら嫌な顔をしようが事実は事実でありますから、それを認めて、なぜそうだったのかを研究しなくてはならないのですが、残念ながらいつものように日本というのは、そう言う風には動かないのです。

日本では明治の10年くらいまでは、街中の銭湯がすべて混浴だったのです。

内風呂があるのは上級武士のお屋敷だけでしたから、下級武士や庶民は老いも若きも男も女も、銭湯へ出かけるわけですが、その銭湯がすべて混浴だったのです。
さすがに朱子学などの儒学を修めた上級武士による度重なる「禁止令」が発令されたようですが、いつの間にかうやむやになってしまったようです。
これが明治の10年まで続いたというのです・・・・。
江戸末期から明治維新において、日本に出入りするようになる欧米人が何に驚いたって、この「混浴」には仰天したようです。
それはそうですよね。
彼らのキリスト教の規範によれば、それは考えられない事であり、まさに旧約聖書の創世記に出てくるソドムとゴモラの街を彷彿としたのではないでしょうか。

そしてそれは世界中のカトリック、プロテンタントを問わず、すべてのキリスト教徒やイスラム教徒、儒教徒、仏教徒、そしてヒンズー教のすべての宗教の「根本規範」の一つであるのです
つまり、混浴とは日本人の男性だけに与えられた桃源郷であったわけですが、こんな事をいうと当時より決して好きで混浴に甘んじていた訳ではないと思われる女性より大反発をくらいそうですが、まあ、先祖の文化として受け止めてください。

私も随分昔になりますが、ある友人との何気ない会話から驚かされた事がありました。
私が40歳位ったとおもうのですが、その友人が「いやー、うちの娘も今年高校生だよ。昨日も一緒に風呂へ入ったが、大きくなったもんだ。」
私は同じ年頃の娘がいたもんですから、飲んでいたビールを吹き出しそうになりながら、「えっ、お前まだ娘と風呂入ってんの?」
の問いに、逆に不審そうに、「えっ、何で娘と風呂はいっちゃいけないの?自分の娘だよ。」・・・・。

江戸時代と同じく混浴の文化と宗教規範のない庶民生活は脈々と地下水路で生き続けているのです。


海外から日本を眺めていると、いろいろな事が見えてきます。
日本人も多くが海外旅行や留学や海外転勤などで海外に慣れ親しみ、そして日本から一歩外に出れば、全く違う人達が住んでいるという事は何となく感ずるはずなのです。
でもそれは、みなそれぞれ違っているのであり、まさか「日本だけが他国と比べ大きく違っている!」という事にはまるで気づかないのです。

そしてそれはこの宗教の規範というものをよく理解しないと気づかないのですが、無宗教である日本人には大変難しい事なのかもしれません。


現在の世界の宗教人口

キリスト教 約 23億人
イスラム教   15億人
ヒンズー教   10億人
仏教       4億人

宗教の規範とは解りやすく言えば、あれをするな、これをするな、のオンパレードです。
そしてその規範を幼少の頃から、毎日毎日、聖書や経典などで勉強させられそれこそ、潜在意識に刷り込まれれるまで教え込まれる言わば生きる為のデータベース作りであると言えるのです。
そしてそれらのすべての宗教が異教徒は人間ではないという規範を持っています。

ユダヤ教、キリスト教(カトリック、プロテスタント、)イスラム教、ヒンズー教、(これで50億人)の各指導者が集まった、宗教会議の席上、折しも湾岸戦争の最中であり、司会者がなぜ欧米はイスラム教の人々を殺すのですか?これは神の名の元に於いて許されることなのですか?」という質問が出たのです。

ユダヤ教のラビがそれに答えました。
「キル(kill)とマーダー(murder)は違います。これはキル(kill)であって、マーダー(murder)ではありません。故に神の祝福を受ける行為であるのです。」と答えたのです。 
英語では一般的に動物を殺すのはキル(kill)であり、人殺しはマーダー(murder)と訳されます。
そして他の宗教指導者達も誰もそれに異論を挟みませんでした。
驚くべき事に殺戮の限りを尽くされている当事者であるイスラム教の指導者でさえ、それを黙って承認したのです。

イスラムの指導者は欧米人にとっては自分達は動物であり、家畜であり、奴隷であると当然のように認めたのですが、それはまたイスラム教の人達にとっても欧米人や異教徒は動物であり、家畜であり奴隷であると認識しているのです。
つまり「当然である」という事なのです。
異教徒は人間ではなく、動物のようなものであるので殺しても奴隷にしても許される、とお互いがそう認識しあっているのです。

解りますか???

そしてこれがなぜ今回の安倍総理の訪米での醜態に結び付くのかは次回書きます。

(原典:日本は明治10年まで混浴だった!?)

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そういえば東ドイツでは

そういえば、東ドイツが裸天国だった事をご存知?
ドイツ併合後(あれは統一ではありません)、DDRの裸天国の事を知った西ドイツの人は羨ましいがるやら呆れるやら。 国営TVのフィルムにバッチり収録してありました。
シュタージの国、DDRが裸天国だったとは、どういう事なんでしょうねー。

『危険な西洋人論』に対して

実は、義理の弟が(当時、大学研究員)FKKのメンバーでして、どうしてそんなところに入ったのだとの夫の質問に、『裸である事は自然なことである』と、夫は『人間には羞恥心というものがある。動物にはそれがない。』と呆れる次第。 双方、現在70歳近くになるドイツ人です。
『全く違う世界』の 『ぎいち』さん 参考にしてください。

ところで、西洋文化と日本文化の比較は、宗教的観点、つまりキリスト教がどうこうと議論していたらとんでもない方向に発展してしまう。 近代社会の西洋文化と日本文化の違いは、『貴族文化』と『大衆文化』にあります。 
貴族の支配したヨーロッパと言うものは、『貴族は門の中に住み、そのほかは門外でご主人様に仕える』でした。住民には宗教の自由さえなく領主の宗教が住民の宗教となりました。勿論そんなところに「大衆文化」など発展するはずがありません。 簡単に民衆を支配できるように読み書きも奨励されませんでした。 聖書を読む事も禁止されていました。 1960年代までは、カソリックの教会でのミサはラテン語でした。

聖書が各国語に訳されなかったのも読まれてはまずかったからです。その代わりに、絵画やステンドガラスで『神様を信じなければこうなるぞ!』という恐ろしい地獄絵で民衆を宗教の世界に引っ張り込みました。宗教を利用した徹底的な愚衆政策でした。(スペインから独立したオランダ以外にはいわゆる大衆文化というものはありませんでした。)

ドイツでは19世紀前半までは農民は村から出ることも禁止でした。理由は『逃げて帰ってこないから』です:働き手が減っては領主にとって都合が悪いという事です。 村を出入りできたのは行商人と旅行大工(一見してそれと分かる服を着ていた)のみ。 『村を逃げて3年と3日隠れて、見つからなければ自由の身になる』と言う歌があります。本当の話で、逃げ先はよその領地か自由都市。 体の逞しいウエストファリア人がプロイセンの傭兵になりたかったら『柩』に身を隠して土地を逃げたと言い伝えられています。

あちこちのブログに、肉食のヨーロッパ人は獰猛で危険とありますが、ヨーロッパ人ではなく、危険なのはヨーロッパの支配階級です。民衆はその支配階級に絶対的に抑圧された被害者です。現代の一般人は、抑圧され続けた人々の子孫ですね。その人達は無茶苦茶親切ですよ。

寛大だった江戸時代の支配者、そのおかげで日本には大衆文化が発展し、貧富の差も少なかったのです。 宗教を主眼とするのではなく、支配政策に焦点を合わせてくださいな。  西洋的観点というよりは、西洋貴族的観点と言い直したほうがいいです。

ところで、もう一点:
現代の大部分のヨーロッパ人は宗教・信仰から離れており、キリスト教を単なる伝統と捉えています。 その反対に。ヨーロッパ人は、日本人を信仰・信心深い民族と捉えております。 其の辺の事を考察してみてはいかが。
 

FKK以前の話

<ドイツのFKKについて:
ドイツではFKKがどの町にもあり、全裸で男女混浴。

江戸時代に日本の混浴に驚いた外国人は、その時代の自分たちの国の文化しか知らなかったから驚いたのである。

FKKについてWikiで読んでみると(ドイツ語だが):
ヨーロッパでは、風呂というものがなかったから、古代より民衆は川や湖で裸になり体を洗った。混浴だったところやそうでなかったところもあった。しかし18世紀後半より北欧以外の国は公衆での裸体陳列が禁止されるようになる。 

禁止は、“公衆の面前で”です。
FKKは町のど真ん中や公園の中などにもありますが、裸連中は公衆の面前に出てきてはいけないだけです。 つまり、混浴は今も昔と同様存在するわけ。
公園の中のFKKなんてのは、見えるところにあるから、何回も見た事ありますよ。みんな笑いながら見るわけ:「なんて子供っぽい連中だ」って言いながら。

この記事は、よその国の事を知らない人の思い違いですね。

ところで、ヨーロッパでは風呂が無かったという話:
ヨーロッパでは宮殿でさえも風呂はありませんでした。勿論、ベルサイユ宮殿にも風呂などなかった。 皆さん、知らなかったでしょう。
どうして体を洗ったって? 湯を洗い場に運びそこで体を洗いました。 
ヨーロッパで風呂があったというのはローマ帝国時代の話。

農村共同体

日本人は基本的に農民で、構成する農村共同体(ムラ社会)が一つの世界であり規範だった。全てはその中での平等を元に、という小さい規模の共産主義のような意識が基本であったと考えられる。ごく最近までそうだった。今でもその名残りが良くも悪くも至る所に垣間見える(世間様とか何とかムラとかオトモダチとか)。
「性」も例外ではない。現代の核家族単位の意識からは理解し難い「夜這い」の風習なども農村共同体の社会的生産関係を考慮すれば、かえって合理的とさえ考えられる。例えば、お祭りがキッカケで生まれた親のはっきりしない子供を「祭りの子」などと呼んで差別するどころか農村共同体皆でかわいがって育てた、なんて話を聞いたことがある。現代のように機械化が進んでいない農村では子供とて貴重な労働力であるし、いづれかなりの力になってくれると期待できるということもあろう。反対に誰の子だ、非嫡出子だのと大騒ぎしたり、差別排除する方が非人道的でバカバカしいということになろう。子供に何ら罪はない。
私見だが、日本の伝統的な農村はまるでシーラカンスのごとく原始時代からの共同体の名残りを留めていたと考える。現代欧米化の常識である「所有」「独占」「排除」などとは反対で、共同体内での共有、共生、協同などが常識であったのだ。家族制度はなく農村共同体が最小単位とするといわば「多妻多夫」のような形態だった。
その昔イギリスの著名な冒険家が太平洋の島々に到達したとき、現住民の行動を西欧的な視点で記述しているのが面白い。「所有」「独占」「排除」が基本の「文明」とやらからみると「共有」など人のものを勝手に盗んでいくのと同じ「野蛮」な行為と映るらしい。
どっちが野蛮人かね。

全く違う世界

こんにちは。

混浴で思い出した興味深い本のこと。
『逝きし世の面影』(平凡社) という本は江戸期来日の外国人の手記が集められています。

当時の日本人が、浴場に限らず日常的に裸体にたいしてとても寛容、、というかあまりにオープンで、、、

(階級の隔て無く、こんなによく笑う国民ははじめてだとか、、)

ここでの紹介される日本人の常態はあまりに現在と違いすぎて、
現在の感覚での混浴とは別物に思えるようになりました。

裸体に”恥ずかしい”とか”いやらしい”という感性すら皆無のようです。

私は、江戸期の日本人の魂の高潔さすら感じました。
現在の日本人とつながった、過去の日本とは思えないほどの世界がそこにあり、

まるで、


そこは、


知恵のりんごを食べる前のエデンの園そのものと感じました。

ドイツのFKK

でも、ドイツにもFKKという混浴プールがあります。中年のおっさん、おばさんが入っています。別に、混浴は日本だけの特権だったというわけではありません。

青森には まだ混浴がある

青森には 混浴があります!豪雪地帯の
『酢ヶ湯』温泉!
いまだに 混浴健在!(笑)!!

みなさーん!酢ヶ湯に浸かりに来てください!(笑)!!

お待ちしてま~す!(笑)!!

江戸時代の「混浴」と現代欧州の「混浴サウナ」

>江戸末期から明治維新において、日本に出入りするようになる欧米人が何に驚いたって、この「混浴」には仰天したようです。
それはそうですよね。
彼らのキリスト教の規範によれば、それは考えられない事であり、まさに旧約聖書の創世記に出てくるソドムとゴモラの街を彷彿としたのではないでしょうか。

ところが、

欧州発「真っ裸で入る男女混浴のサウナ」―男女体験者の本音
http://news.ameba.jp/20131015-152/

>真っ裸で見知らぬ異性と入らなければならないサウナ。アナタならどうしますか?

>そんなスッポンポンのサウナ文化がフツーな国は、オランダ、ドイツ、オーストリア、スイス。ハンガリー等の東欧諸国やフィンランドを含めた北欧諸国では、場所によって異なりますが、日英米仏と比べれば比較的多くあります。

これまさに「混浴」そのものではありませんか!

このオランダ、ドイツ、オーストリア、スイス。ハンガリー等の東欧諸国やフィンランド、みなれっきとした「キリスト教国」なんですが。
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