柿本人麻呂と石見地方

益田市にある高津柿本人麻呂神社
最近『放知技』で柿本人麻呂が話題になっていたのだが、実は私の実家は島根県益田市という柿本人麻呂の伝説が色濃く残る地方である。そこには立命館大学教授で哲学者の梅原猛氏が『水底の歌』で柿本人麻呂の終焉の地と推定している場所もある。
益田市には二つの柿本人麻呂神社がある。一つは柿本人麻呂が生誕し育った場所と伝えられる神社だ。この神社には幾つかの伝説や古文書が伝えられており、それによれば柿本人麻呂は父親の柿本氏と共に大和から石見に赴任した綾部氏の娘の間に生まれたとされる。その後に父親が早くなくなり、現地で7~8歳の頃に孤児として引き取られたという。
成長した柿本人麻呂は若くして和歌に秀で宮廷歌人として活躍したが、晩年には宮廷から遠ざけられて故郷の石見の地に帰還して亡くなったそうだ。神社には柿本人麻呂の遺髪が埋められているという遺髪塚があり、母親と同族の綾部家が神社を先祖代々に守っており現在の当主は50代目だ。
もう一つの神社は、もともとは島の上に立てられた柿本神社が津波で流され、対岸に柿本人麻呂像が流されてきたとされる場所にある。その周辺は高津という地名で、柿本人麻呂の歌の「石見のや高角山の木の際よりわが振る袖を妹みつらむか」の高角山だとされている。
柿本人麻呂が宮廷を追われるように左遷されて、故郷の石見に帰還した理由としては幾つかの説が唱えられている。一つは藤原不比等との権力争いに敗れて宮廷を追われ、故郷の石見に帰ったという説だ。他には天皇のお気に入りの宮女との不倫をとがめられて故郷近くの島に幽閉され、その後に島で処刑されたという新説を唱えている作家もいる。
いずれにしても柿本人麻呂が歌に詠んだ地名が今なお石見地方に多く残っていることからすると、人麻呂が幼少期または晩年の不遇な時期をこの地で過ごした可能性は高いだろう。
野崎晃市(42)