柿本人麻呂と出雲王朝

益田市の戸田柿本人麻呂神社
以前に私の地元で聞いた話として、柿本人麻呂の出自と終焉に関しての記事を書いた(記 事)。すると古田武彦氏の支持者の方からご意見をいただいたので、古田氏が『人麿の運命』などで唱える「柿本人麻呂=九州王朝説」について再び考えてみた。
私は古田武彦氏の「柿本人麻呂=九州王朝説」を否定するつもりは全くないが、さりとて古田氏の意見に全面的に賛同できるわけでもない。私が躊躇する点は、古田氏が「九州王朝」と「近畿王朝」の二つの王朝説の対立という視点で語っている所である。私は柿本人麻呂の謎を解くには、第三の鍵として「出雲王朝」との関係も考慮に入れるべきではないかと考えるからだ。
というのは、伝説にあるように柿本人麻呂が幼少時あるいは晩年に石見で生活したとすれば、なぜ人麻呂自身あるいは親の柿本氏が石見という地方に来なければならなかったのかという疑問が生じる。そしてその答えは、柿本人麻呂と「出雲王朝」の関係にあるとは考えられないだろうか。
『日本書紀』によれば斉明天皇が659年に出雲地方に神社の建設を命じ、716年に現在と同じ場所に出雲大社が完成しており、さらに同時期に「出雲国風土記」の編纂が行われている。この空前の出雲リバイバルが起こった時期は、ちょうど柿本人麻呂が石見にやって来たと伝わる時代と重なっているのだ。さらになぜ柿本氏がこの出雲リバイバルに合わせて近くの石見に来たのか理由を考えると、柿本氏の出自が「出雲王朝」と関係があったためではないかと思えてくるのだ。
ただし柿本氏の出自と「出雲王朝」の関係を語るには奈良の葛城地方に残るもう一つの人麻呂誕生伝説も考慮しなければなるまいし、古田武彦氏の唱えるいわゆる「九州年号」と「出雲王朝」の関係も語らなければなるまい。これらはまた別の機会に改めて詳しく説明しようと思う。
ちなみに私は柿本人麻呂終焉の地については、地元びいきと戸田柿本神社の綾部氏が五十代にわたり守って来た伝承に敬意を表して益田説を支持する。なお「石見国風土記」逸文にある柿本人麻呂の終焉の地を「東海の畔」とする表記については、朝鮮人が日本海を東海と呼ぶことを思い出せばすぐに理解できると思う。
野崎晃市(42)