飯山一郎のHPへ  里子のブログへ  大気拡散予測と気流予測  皇后陛下ご発言  超 少 食  玄米で乳酸菌  状況認識!  連帯拒絶!
飯山一郎の白蛇様
『文殊菩薩』  What?  Photo 末世の争乱近し.英雄出ず.ひたすら健康延命図るべし.

※ 一日一食は聖者の食事。一日二食は人間の食事。一日三食は動物の食事。 記 事    

近代中国のロマン派詩人(9):徐志摩(じょしま)と張幼儀(ちょうようぎ)

張幼儀
張幼儀と徐志摩


徐志摩と張幼儀は1915年に親の勧めで結婚し、1918年には二人の間に長男が生まれた。1920年には徐志摩の世話をするため、張幼儀もアメリカとイギリスに渡航している。しかし徐志摩はイギリスで林徽因と恋愛関係になり妻の張幼儀に離婚を提案するが、その時に張幼儀は二番目の子供をおなかに宿していた。

離婚した後に張幼儀はパリに留学していた兄の元に行き、その後に兄と共にドイツに留学して幼児教育を学んだ。張幼儀の親族には中国銀行の副総裁となっている者もおり、家庭が裕福であったため暮らしには困らなかったようだ。1926年には中国に帰国して上海の東呉大学でドイツ語を教えた。

その後も張幼儀は銀行を経営する家族の助けで上海の銀行で副総理を務め、アパレル会社を経営するなど実業家として活躍した。徐志摩の両親は離婚後も張幼儀を義理の娘として扱い、徐志摩が陸小曼と再婚する際には張幼儀の同意を求めている。張幼儀は1953年に香港の医者と再婚し、晩年はアメリカに移住した。

張幼儀は徐志摩の自由気ままな生き方を許し、自分で自立して生活する道を選んだ。彼女は裕福な家庭に恵まれ金銭を心配しなくてよかったためもあるが、二人の結婚は張幼儀にとっても不本意だったのであろう。離婚後も張幼儀は息子を連れて徐志摩の実家に出入りし、徐志摩とも会社の共同経営をするなど友人として交際を続けている。

以下に私訳したのは、徐志摩の詩「最後的那一天」である。

「最後のあの日」
春風が再び戻ってこなかったあの年、
枯れ枝が再び青くならなかったあの日、
あの時には空から光が消え失せ、
ただ一面に黒い妖気が漂っていた。
太陽も月も星の光も死んだ空間で、
全ての基準がひっくり返ったあの日、
全ての価値が入れ替わったあの時間、
最後の審判の荘厳の中で暴露されたのは、
一切の虚偽と虚栄と虚空だった。
赤裸々な霊魂が種の前でひれ伏す時、
私の愛する人よ、君と僕は慌てる必要はない。
訴えも、弁明も、隠れる必要もない。
君と僕の心は雪のように白い二つの蓮の花。
愛の青い茎の上で堂々として、喜びに満ちた、鮮やかな花だ。
主の前では、愛こそが唯一の栄光なのだ。

野崎晃市(42)

コメントの投稿

非公開コメント

文殊菩薩カウンター
おひかえなすって 手前 生国は野州 栃木でござんす

薩摩の黒豹=飯山一郎

Twitterボタン
16SHARP
飯山本シャープ飯山店
白蛇様に願かける
『文殊菩薩』の記事一覧
大気拡散予測 (毎日必見!)
空間線量率(県別)  便覧   狸
生き方考え方を大変革!
食べない生き方
放知技』↓をココで読む。
検索フォーム
高いモノは買わない!

飯山一郎ブランド

『霧島の秘水』
飯山一郎ブランド

『ミラクル大豆』(豆乳)
最新記事
miniPortal
リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
 ▲TOP