日本軍の女スパイ中島成子

中島成子
中国で川島芳子と並んで日本軍の女スパイとして有名なのが中島成子である。中島成子は栃木県の出身で、当初は看護婦として大連や瀋陽の病院で働いていた。そこで張作霖の顧問であった町野武馬から目を付けられ、張学良の家に家庭教師の名目で住み込み情報を集めるようになった。
看護婦時代に吉林省出身で鉄道技師の韓景堂と知り合って結婚し、中国では韓太太(韓夫人の意味)と呼ばれていた。しかし、実際には韓景堂の複数いた夫人の一人にすぎず、韓景堂と同居していたのは比較的短期間であった。
韓景堂と別居後の中島成子の男遍歴はすさまじく、やはり恋多き女性であった川島芳子から「韓太太はしばしば寝る男を変える」と罵られるほどであった。中島成子の子供は八人いたが、父親は必ずしも韓景堂ではなかったようだ。そのため、中丸薫が中島成子と堀川辰吉郎の間の子供と主張していても特に矛盾はない。
同じ女スパイの川島芳子とは仲が悪く、満州同郷会の運営を巡って衝突したため二人の確執は“川中島の戦い”ともてはやされた。
中島成子は戦時中に北支那方面軍参謀長山下奉文や関東軍司令官本庄繁等からの依頼で、中国人の馬賊を日本軍に帰順させたり、共産党軍と密貿易をするなど主に敵軍との交渉を担当する特務機関員として活躍した。
戦後は日本軍のスパイとして中国で投獄され、十二年間の監獄生活を経て一九五七年にようやく日本に帰国した。
野崎晃市(42)