飯山一郎のHPへ  里子のブログへ  大気拡散予測と気流予測  皇后陛下ご発言  超 少 食  玄米で乳酸菌  状況認識!  連帯拒絶!
飯山一郎の白蛇様
『文殊菩薩』  What?  Photo 末世の争乱近し.英雄出ず.ひたすら健康延命図るべし.

※ 一日一食は聖者の食事。一日二食は人間の食事。一日三食は動物の食事。 記 事    

「宋襄の仁」と「敵に塩を送る」

上杉謙信
敵に塩を送った上杉謙信

現代では「宋襄の仁」と言えば、つまらない情けをかけることを意味し、毛沢東も「宋襄の仁のような愚かな豚のような情けは不用だ」と述べている。

この諺の由来は、宋国の襄公が楚国と戦った際に、楚軍が川を渡って隊列を組む前に攻撃すれば勝てたにもかかわらず、襄公は敵が困っている時に攻撃するのは礼儀に反するとして攻撃しなかった。そのため楚国は川を渡って隊列を組んで戦うことができ、大いに宋国の軍を打ち破り襄公も怪我を負ったという故事である。

襄公の行動には中国でも賛否両論があり、『春秋公洋伝』や『史記』では襄公は礼を重んじた君子として評価している。

ところが『春秋左氏伝』や『十八史略』では、襄公は敵につまらない情けをかけたとして批判している。

中国では「打落水狗(水に落ちた犬は打て)」とか「落井下石(井戸に落ちた人の上に石を投げる)」などの諺があり、困っている人間を更に苦しめることを良しとする考えもある。

ことに戦国時代や激しい権力闘争が続いた文化大革命では、殺すか殺されるかの極限状態になるため敵への情けは我身を滅ぼすことにつながったためであろう。

一方で、日本では上杉謙信が塩の不足で窮地に陥った武田信玄に塩を送ったことは美談として「敵に塩を送る」という諺になっている。

しかし、この場合は上杉謙信は塩を送ったことで宋の襄公のように不利益を被ったわけではなく、上杉謙信は塩を売って儲けるしたたかさを持っていた。

ようするに敵に情けをかけて良いのは、こちらが圧倒的に優勢で敵に反撃する力がない場合や、こちらにも何らかの利益が見込める場合であろう。

そういった条件下では上杉謙信のように敵に恩を売ることで、こちらの名声を高め、敵との緊張関係を緩和することができるかもしれない。

宋の襄公の場合は敵の楚国のほうが大国で、軍事面では情けをかける余裕などなかった。

しかも襄公は楚国に拉致されて嫌がらせをされた後だったので、大義名分の面でも楚国に情けをかける必要などなかったのである。

そう考えると、宋の襄公が楚軍の攻撃をためらった真の原因は、表面的に語られているように敵に情けをかけたり礼儀を重んじたためではなく、楚軍への攻撃を具申した兄の目夷への反発にあったのではなかろうか。


野崎晃市(42)

コメントの投稿

非公開コメント

No title

初めまして。
「放知技」の方に宋の襄公について書き込んだ者です。
こちらではいつも勉強させていただいております。

「宋襄の仁」について書かれていたので、思い切ってコメントさせていただくことにしました。

襄公と目夷との仲は本当のところはどうだったのでしょうか?
礼を重んじる襄公に対して、目夷は分不相応に覇者として振る舞おうとする頃から再三襄公に諌言するも受け入れられず、最終的には泓水の戦いで楚軍にさんざんに敗れ、襄公はその時負った傷が元で亡くなってしまいますので、時代遅れの理想主義者の襄公と現実主義者の目夷という対比で後世には書かれています。
襄公は父の桓公の死にあたって、太子の座を妾腹でありながらも目上である兄の目夷に譲ろうとしたわけですが、桓公はその節義を良しとしながらも、それを認めず、目夷も国を譲ろうというほどの仁はないとして太子になろうとはしませんでした。
桓公の死後即位した襄公は目夷を宰相にしました。
この2人が、ある意味二人三脚でしっかりと国を治め、対外的にも礼儀を示したので、最初の覇者である斉の桓公が亡くなった後に、諸侯の会合を主宰できたのではないでしょうか。
楚は中原の諸国から見れば、この頃はまだ南の野蛮な新興国家くらいにしか見なされていなかったかもしれませんが、成王の本、大きく勢力を伸ばしていた楚からすれば、小国に過ぎない宋が斉公のように覇者然と振る舞うのは我慢ならなかったのでしょう。
2回目の会合の時には、楚は成王は出席せずに将軍(子玉)を送りこんで、襄公を拘束したあげく、宋国内を荒らし回ったわけです。
その後に泓水の戦いがあるわけですが、襄公の気質を熟知している目夷は、襄公は正々堂々の戦いしかできないことを知った上でも、先の会合での恥辱を襄公以上に深く恨んで、楚に礼や仁はいらない、せめて一矢を報いたいという思いで、渡河中や、陣を整える前の楚軍への攻撃を進言したのではないでしょうか。
ただそう進言した目夷にしても、襄公は正々堂々の戦いを選択するということはわかっていて、最後は楚の大軍に向かったのではないかと思います。
襄公の死後は、襄公の子の王臣(成公)が跡を継いでいます。
目夷のその後はわかりませんが、公位を奪うことはなかったので、そのまま成公に宰相として使えたのかと思います。
目夷も殷(商)の血を受け継いだ末裔ですから、襄公とともに礼、仁を大切に生きた人物だったのではないでしょうか。

勝手な推測ですが、いろいろと想像をふくらますことができるのも歴史の面白いことですよね。

長文失礼いたしました。
文殊菩薩カウンター
カーソルを乗せると日毎のグラフ

朗報 緑茶は放射能を防護!
3行
無農薬健康茶
4袋入り2592円

2袋入り1296円
ヤヨブーが熱唱
あらびき茶あらびき茶ソング

放射能ゼロ↓の産直玄米
飯山一郎ブランド
ぽんぽこ笑店
九州産の安全な食材
↑安全!和香園のお茶
飯山一郎の新刊
色棒24色棒24色棒24
ベストセラー!

もう一台! 56% OFF!

私が載ってるスターピープル
超少食 ←読んで実行!!病気知らず!!
おひかえなすって 手前 生国は野州 栃木でござんす

薩摩の黒豹=飯山一郎

Twitterボタン
16SHARP
飯山本シャープ飯山店
白蛇様に願かける
『文殊菩薩』の記事一覧
大気拡散予測 (毎日必見!)
空間線量率(県別)  便覧   狸
生き方考え方を大変革!
食べない生き方
放知技』↓をココで読む。
検索フォーム
高いモノは買わない!

飯山一郎ブランド

『霧島の秘水』
飯山一郎ブランド

『ミラクル大豆』(豆乳)
最新記事
miniPortal
リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
 ▲TOP