飯山一郎先生の最終講義(2)

石碑の前に立つ飯山一郎先生
古墳を見終わった後で、飯山先生に案内していただいたのは、志布志の田んぼの真ん中にある『肆部合の石碑』であった。
この石碑は南北朝の軍の衝突が起こった際に、戦闘で命を落とした北朝側の三人の武士を記念する供養塔なのだという。
楠木正成の死後に、南朝残党のわずかな勢力は鹿児島まで逃げ延びたが、ついに北朝の追っ手が迫り最後の戦闘が行われた。
この戦闘を最後に南朝側は鹿児島周辺の島々に逃れ、そこで明治維新の前夜まで人目を避けるように隠れ住んでいたという。
明治維新の立役者である西郷隆盛は、南朝を支持していた菊池一族の末裔で、南朝を守護し復興することを使命としていたという。
この石碑は南北朝の最終決戦がこの南端の地であった証拠であると同時に、明治維新の謎を紐解く重要なヒントでもあるそうだ。
飯山先生によれば、この石碑の近くには飯山と呼ばれる土地があり、飯山家の先祖は薩摩隼人であったとの説もあるという。
飯山一郎のルーツは戦のため関東に移住した薩摩隼人で、志布志は先祖が住んでいた土地なのかもしれないとのことであった。
野崎晃市(44)