「大化の改新」は「玄武門の変」がモデル

中大兄皇子と中臣鎌足は李世民をモデルとした
今学期から、大学で日中交流史を教えているのだが、「大化の改新」が「玄武門の変」をモデルとしていることに気が付いた。
日本人なら、「大化の改新」なら聞いたことがあるだろうが、「玄武門の変」を知っている人はあまりいないかもしれない。
626年「玄武門の変」は、唐の第二代皇帝となる李世民が、皇太子だった兄の李建成を殺し、父の李淵を幽閉し、政権を奪う事件だ。
その約20年後に、中大兄皇子が宮廷で蘇我入鹿を殺し、母の皇極天皇を退位に追い込み、自ら政権を握る「大化の改新」が起こる。
しかし、中大兄王子と中臣鎌足は、遠く唐で起こった「玄武門の変」について、どうして知っていたのだろうかという疑問が起こる。
ちょうど、遣唐使の南淵請安が608年から唐に留学し、640年に帰国して塾を開き、中臣鎌足と中大兄皇子はそこで学んでいる。
南淵請安ならば、「玄武門の変」を熟知していたはずで、中大兄皇子はそこからヒントを得て、645年「大化の改新」を主導したのだ。
ちなみに、私は小林恵子らが主張する、中大兄皇子が百済王子翹岐で、中臣鎌足も智積か豊璋とかいう百済主導説は取らない。
野崎晃市(46)