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青島名物:嶗山可楽(ラオシャン・コーラ)

ラオシャンコーラ
ラオシャン・コーラ

今日、青州駅の売店で見つけた隠れた青島の名物である嶗山コーラを飲んでみた。青島と言えば青島ビールで有名だが、この嶗山コーラも知る人ぞ知る青島の名物なのだ。

この嶗山コーラはそんじゃそこらのコーラのパクリ製品とはわけが違う。なんと成分は漢方薬をブレンドしてコーラの味に近づけた飲料で、健康に良いことを売りにしているのだ。しかも、使用されている水はビールにも使用されている青島嶗山の天然ミネラル・ウォーターだ。

よく考えてみるとコカ・コーラやドクター・ペッパーなども当初はコカの葉や薬を混ぜて作っていたのだから、漢方薬で炭酸飲料を作るという発想もありかもしれない。飲んでみると確かにコカ・コーラに近い味なのだが、微妙に葛根湯のような漢方薬独特の味がする。

この嶗山コーラは歴史が古く、1953年に青島で開発され売り出された飲料で、既に60年以上も山東人に愛飲されている。中国がまだ貧しくてコカ・コーラが輸入できなかった時代に、手に入る材料で何とかコカ・コーラに近いものを作りましたという努力が感じられる製品なのだ。

ただし売っている場所が少なく、中国でもなかなか店頭で目にする機会がない。なので青島に来て運よく見つけた人は、ぜひとも記念に飲んでほしい一品だ。その味に中国5000年の歴史と智慧とたくましさを感じられること請け合いだ。

野崎晃市(42)

中国で便利なスマホ・アプリ

高徳地図のナビ画面
便利なスマホ・アプリ「高徳地図」

今日は中国に来たばかりで中国語初心者の鈴木さんのために、中国生活に役立つスマホ・アプリを紹介しながらインストールを手伝った。

鈴木さんのスマホもタブレットもandroid端末だが、中国ではグーグル・ストアが使えない。そのためアプリのインストールには、まずグーグル・ストアに代わる「手机助手」というアプリをインストールしなければならない。

「手机助手」をインストールするには、http://www.baidu.com/から中国最大の検索エンジン「百度」を開く。そして「百度」で「手机助手」を検索し、「百度手机助手」「360手机助手」「応用宝」などのandroid版をダウンロードしてインストールする。

「手机助手」のアプリを起動すると、中国で使用できるゲームや実用的なアプリがダウンロードできるようになる。

今日は鈴木さんのような中国初心者のために、中国で生活するのに役立つ便利なスマホ・アプリを以下に紹介しよう。

1、高徳地図
中国ではグーグル・マップが使えないので、その代わりとなる地図アプリとして高徳地図がお勧めだ。高徳地図を使えばGPSで自分の位置情報と周囲の地図が表示される。検索窓に行き先を入力すると、カーナビのようにバス・電車・徒歩での移動の仕方を表示してくれるのでとても便利だ。ただし中国国内の地図しかサポートしておらず、日本や外国の地図は表示されない。

2、百度翻訳
百度翻訳というアプリも大変に便利だ。中国語ができない人はこの翻訳アプリに日本語を入力すれば、自動的に中国語に翻訳して表示してくれる。ただし文章が長いとトンチンカンな翻訳になることが多いので、なるべく短い文書や単語を入力するようにしよう。

3、微信
中国ではLINEがあまり使用されておらず、しかもメッセージが遅れて届くことが多い。中国でLINEに似た機能のアプリで多く使用されているのが微信あるいはWeChatだ。微信に銀行口座を登録すると、おサイフケータイのように買い物やタクシーの支払いをすることもできる。

4、Skype
国際電話を普通の電話から掛けると料金がかさむが、Skypeを使用すれば安くあがる。またSkypeクレジットを購入しておけば、日本の固定電話や携帯電話にも安く電話がかけられるようになる。

以上が今回インストールした中国生活に便利なお勧めスマホ・アプリだ。

以下は中国語初心者のためのスマホ・アプリに関連した中国語の単語集。

「手机」→携帯電話
「充值」→料金チャージ
「安卓」→android
「下载」→ダウンロード
「安装」→インストール
「卸载」→アンインストール
「打开」→開く
「应用」→アプリ
「游戏」→ゲーム

野崎晃市(42)

青島留学で海外雄飛を目指す青年

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青島留学で海外雄飛を目指す青年と

今日、青州の飯山事務所を訪れてくれたのは青島に今年の3月から語学留学するという鈴木さん。

鈴木さんが留学するのは青島の中国海洋大学という名門大学で、中国雄飛の夢を実現するために、まずは中国語を大学で半年間しっかりと学ぶ予定だ。

中国語を学ぶ目的は、飯山式乳酸菌農業を中国と地元の福島に広める活動に携わるためだとの願いを熱く語ってくれた。

鈴木さんは福島の出身で3.11の津波や地震を間近に体験し、実際に足首まで津波の水に浸かって身動きが取れず非常な恐怖を感じたという。

福島の復興がなかなか進まないことに対する地元の人たちの苛立ちや、マスコミや政府による事件の隠ぺいについても地元ならではの貴重な情報を教えてくれた。

飯山式乳酸菌農業に地元の復興のヒントを得たが、福島では様々な圧力で実現が難しいため、まずは中国で乳酸菌農業の実践経験を積みたいという。

飯山事務所では鈴木さんのように日本から世界へ雄飛し、乳酸菌技術を広める人材を積極的に応援する。

野崎晃市(42)

中国中央銀行が独自の電子通貨発行を検討

中国電子通貨
中国人民銀行が独自の電子通貨を検討

中国ではWeChatやAlipayなどのネットや携帯電話を利用した電子決済システムが急速に普及しており、現金を持っていなくても買い物やサービスの支払いが可能な場所が増えている。

WeChatやAlipayは民間企業によるおサイフ携帯と電子通貨の間のような過渡的システムだが、中国人民銀行(中国の中央銀行)は世界に先駆けて電子通貨の発行を検討しているという。

2014年から中国中央銀行ではビットコインなどで応用されているブロック・チェーン技術の研究が進められており、最近のビットコインの流通拡大にも深い関心を寄せているという。

現在ドイツやスイスなど複数の国で中央銀行による電子通貨の発行が研究されているようだが、中国が世界で初めて電子通貨を国家規模で発行することになるかもしれない。

将来的に現金の紙幣や貨幣を廃止して全面的に電子通貨に移行すれば、国家が個人を含め全ての金融の流れを把握し管理できるようになる。

マイナンバー制度と電子通貨により、国家によるコンピューターを通じた個人のデータ管理がますます進むことになるだろう。

その先は黙示録に登場する666の獣が人々に強制する刻印の実現化へと向かっているのかもしれない。

野崎晃市(42)

中国地方都市の交通事情

青島
青島の地下鉄

今年に入って中国の青島・瀋陽・長春などの地方都市を訪問する機会があったのだが、どの都市も高速鉄道と地下鉄が整備され非常に交通が便利になっていた。

これらの都市では数年前からのマイカー・ブームで、朝夕の通勤ラッシュ時の渋滞が問題となっていた。そこで渋滞問題解消のため、高架道路やバイパス建設などによる自動車道路の立体化と地下鉄の建設が進められてきた。

それに加えて各都市を結ぶ中国版新幹線である高速鉄道網の建設が進められてきた。以前は4時間かかっていた長春-瀋陽間が高速鉄道ではわずか2時間になり、今回の旅はとても快適であった。

空港や高速鉄道の駅と市内を結ぶための鉄道も計画されており、交通インフラがゆっくりではあるが着々と建設が進められている。

だが、そもそも中国東北地方の地下鉄や高速鉄道網の建設は、旧満州国時代に日本人により計画されたものだった。

満鉄の特急アジア号は、当時としては最速の時速130キロでハルピンから大連までを運行した。

瀋陽や長春では旧満州国時代に早くも地下鉄の建設が予定されていたが、これは戦局の悪化のために実現されなかった。

長春では1906年に満鉄総裁になった後藤新平が将来の車社会の到来を予測して、当時としては広すぎるほどの道路を建設した。後藤新平の都市計画は百年先を見据えてのことだったという。

この戦前建設された広い道路が渋滞で拡張を余儀なくされたのが、ちょうど後藤の都市計画から百年が過ぎたころであったのは感慨深い。

野崎晃市(42)

ドラマ「大秦帝国の崛起」

蘇秦の墓
山東省にある蘇秦の墓

最近、中国中央テレビで放送されている歴史ドラマ「大秦帝国の崛起」を見ている。このドラマは、秦の始皇帝の祖父にあたる秦の昭襄王の時代を扱った時代劇だ。

昭襄王は始皇帝の影に隠れてあまり有名ではないが、秦国で最も長く56年間も統治し秦を強国に育て上げた名君であった。

なぜ昭襄王が主役のドラマが作られたかと言うと、昭襄王の母親の一生を扱った「羋月伝」というドラマが数年前にヒットしたため、この時代に対する関心が高まったためのようだ。

ドラマ「大秦帝国の崛起」では、以前にもこのブログで紹介した斉国の孟嘗君のエピソードが出て来る(記 事)。もともと斉国の宰相だった孟嘗君を、秦の昭襄王がスカウトして秦の宰相に招聘しているのだ。

ところが昭襄王は後に孟嘗君が斉と通じていると疑い暗殺しようとする。秦から危機一髪で逃れた孟嘗君は再び斉国に戻り宰相に返り咲く。

このドラマでは孟嘗君が斉国を出て秦国へ行かざるを得ない情況を作り出したのは、合従策で知られる縦横家の蘇秦であったように描かれている。

蘇秦に関しては1973年に長沙の馬王堆墓から見つかった『戦国縦横家書』などにより、司馬遷が「史記」に描いた人物像にかなり誤謬が含まれていたことがわかっている。蘇秦には蘇代・蘇厲という兄弟がいたのだが、司馬遷はしばしば蘇秦と兄弟たちの業績を混同しているらしい。

そうしたこともあり、このドラマでは蘇秦の果たした役割について、大幅に新しい解釈を取り入れているようだ。ドラマでは蘇秦は秦に対抗するために合従策を唱えたというより、斉を滅ぼすために行動したことになっている。

歴史も時に新たな発見により大幅に訂正されたり解釈が変更されることがあり、それが現代人の意識まで変えることがあるから面白い。

野崎晃市(42)

中国の4Kテレビ

爆風テレビ
購入したのと同型の液晶4Kテレビ

中国の家で使用していた10年前に購入のブラウン管テレビが壊れたので、新しい液晶テレビを購入することにした。数年前に比べると液晶テレビの値段がずい分と安価になっており、しかもテレビ放送の方式まで相当に変化していたので今更ながら驚いてしまった。

購入したのは45インチのシャープ製液晶を使った4Kテレビで、値段は日本円で3万円程度と驚くほど安価だ。アンドロイドOSが搭載されたスマート・テレビで、アプリを入れればテレビ放送だけでなくゲームやカラオケも楽しめる。

以前のテレビはケーブル・テレビと契約して、月当たり日本円で1000円くらいの放送料金を支払っていた。今は光インターネットを通じてほとんどのテレビ放送がストリーミングで流れているので、光インターネットに加入していればテレビ放送が無料で見られるようになっている。

ここ数年の光インターネットの普及により、ケーブルテレビは既に過去の遺物となったようだ。いつの間にか光インターネットを通じたストリーミング放送やオンデマンドで映画が配信されるスマート・テレビが主流になっていた。

オンデマンド映画は基本有料で、日本でいえばhulu,Gyao,Netflixのような動画配信サービスの中国版で爆風・騰迅・愛奇芸といったサ―ビスがある。こうした動画配信サイトが有料配信サービスを始めたため、副作用として映画やテレビ番組の著作権がかなり厳しく取り締まられるようになった。

4K対応の放送はまだチャンネルが少ないが、子供と一緒に動物や海洋生物の紹介番組を4K放送のドキュメンタリーチャンネルで楽しんでいる。さすがにリアルさや色の発色具合が格段に向上されており迫力がすごい。

日本でも来年あたりから4K放送が本格化するようだが、当面はBSやCSで有料となるようだ。中国でも急速にテレビ放送の高解像度化とネット配信化が進んでいるので、中国のほうが早く4Kテレビが普及するかもしれない。

野崎晃市(42)

孔子伝(40):孔子の葬儀と門徒たち

子貢
子貢が孔子の墓守をした場所

孔子の葬儀は孔子の遺訓に従って、簡素ながらも厳粛にとり行われた。門徒たちは親の死を悼むかのように、大きな影響を与えた教育者の死を悲しんだ。魯国の君主であった哀公も弔問に訪れ、次のような感想を述べた。

「天は無情にも孔子を留めおかず、私だけが残された。そのため余は憂いている。ああ、なんと悲しいことだ。孔子が世を去ってというもの、私を律するものがいなくなった。」

孔子の棺を載せた車は当時の周で一般的な方式で修飾がなされ、夏と殷の礼節に従って三角の旗を挙げ、旗の竿の上には長さ八尺の細長い布を取り付け、古めかしく荘厳な雰囲気で執り行われた。

孔子の棺は魯城の北の墓地に埋葬されたが、そこは孔子の息子の孔鯉が埋葬された場所の近くであった。孔子は生前に何かを副葬品として埋めることに反対していたので副葬品は何も入れられなかった。

葬儀の後に門徒たちは三年喪に服し、墓の周囲に松や柏や各種の木を植え彼らの追悼の意を表した。三年の喪が明けると人々は別れを告げてそれぞれ去って行った。子貢だけは墓のそばに小屋を作ってさらに続けて三年喪に服した。

司馬遷は漢の武帝の時代に孔子の遺跡を尋ねて歩き回り、そこで聞いた伝承を「孔子世家」と題して書き残し次のように評価している。

「天下には君王や賢人が数多くいたが、生きている間は栄華を極めても、死ねばそれまでの者が多い。孔子はただの平民であったが、十数世代も教えが伝えられ学者の祖として尊敬されている。孔子が天子や王侯から一般人にまで教育を施したことは、至聖と評するにふさわしい功績である。」

司馬遷の論評は孔子が世を去ってから三百年経た後に書かれたが、現代でもなお当てはまる適切な論評であると思う。

孔子に対する好き嫌いは各自あるだろうが、歴史的に東アジアの道徳倫理や思想に及ぼして来た巨大な影響は誰も否定することはできないだろう。

                                       (完)

野崎晃市(42)

孔子伝(39)孔子の死

孔子の墓
曲阜にある孔子の墓

高齢による衰弱に加えて、息子や門徒の顔回と子路が相次いで死去したことによる心理的なショックがさらに追い打ちをかけたのであろう。孔子は病の床に臥すことが多くなり、ほとんど起き上がれなくなった。

魯国の始祖で周王朝建国の最大功労者である周公旦も、若い頃はよく夢に現れて孔子に道を示したものだったが、最近は周公旦の夢を見ることがなくなった。孔子は生命の終わりが近付いて来たことを感じざるを得なかった。

ある朝に孔子は杖をついて門の外に出て、下のような歌を朗詠した。

泰山は崩れるだろうか。
梁の木は壊れるだろか。
哲人は萎えるだろうか。
 
子貢が見舞いに来て孔子が悲しげに歌を朗詠しているのを発見し、急いで孔子の身体を支えて部屋に入れた。

子貢「泰山が崩れたら、私たちは何を仰ぎ見るのですか。梁の木が壊れたら、私たちは何を支えとするのですか。哲人が衰弱したら、誰に学ぶのですか。先生の病気はそんなにひどいのですか?」

孔子「私はもともと殷人であるからであろう、昨晩の夢の中で自分が東西の柱の間に座っているのを見た。おそらく私は間もなく死ぬのだ。そうしたら私の棺を夢で見たように安置してくれ。」

この日より孔子は寝たきりになり、紀元前479年に享年七十三歳で眠るように息を引き取った。孔子は世を去る前に、寝床に臥せたまま書物を読んでいた。孔子が息を引き取っているのを発見された時、彼の傍らには前の日に読んでいた竹簡が広げられたまま落ちていた。

野崎晃市(42)

孔子伝(38):子路(しろ)の死

子路墓
河南省濮陽にある子路の墓

子路は魯に帰還した後しばらくは季孫氏の下で仕官していたが、紀元前481年に衛国の執政大夫の孔悝(こうかい)の部下として仕えた。そのころ衛国では出公とその父蒯聵(かいがい)による王位争奪戦が再燃していた。

孔悝の母である孔姫(こうき)は蒯聵の姉にあたり、蒯聵は孔姫の内応により前480年に数名の戦士を率いて孔悝宅に侵入し、孔悝を脅迫して自分を君主とするように迫った。

子路はこの情報を聞くと友人の子羔(しこう)が止めるのも聞かずに、一人で主人の邸宅に駆け付けて蒯聵が孔悝を脅したことを責めた。当時、蒯聵と孔悝は同盟を結ぶ儀式を終えて儀式の台の上にいたが、子路は蒯聵に孔悝を釈放するよう迫った。

そこへ蒯聵の部下二人が子路に剣で切りかかった。子路は死ぬに当たり切られた冠の紐を結びなおして、「君子は死すとも冠は落とさず」と最後の気迫を示した。子路の行動はあまりにも衝動的であったが、主人を守るため危険を顧みずに飛び込むという子路らしい死に方であった。

子路の死により孔子はまた一人最も親密な門徒であり友人を失うことになった。知らせを聞いた孔子は大変に悲しみ、中庭での祭祀の最中であったがその場で泣き伏せてしまった。

孔子が子路の最後の状況について聞くと、目撃者は子路が死後に切り刻まれて肉の塩漬けにされたと語った。孔子は大変にショックを受けて、食卓にあった肉を捨てるように命じ「どうして口にすることができるだろうか」と述べた。

孔子はもう何も食べる気がなくなってしまい、自己の寿命ももう長くはないと感じるようになった。子路の葬儀に訪れた客が帰ると、孔子は門徒たちに支えられ寝床に横たわり、そのまま目が眩んで立ち上がれなくなってしまった。

野崎晃市(42)

孔子伝(37):原壌(げんじょう)を杖で叩く

原壌
原壌(げんじょう)を杖で叩く孔子

原壌は魯国で孔子と共に育った幼友達だったが、彼は粗野で礼節に無頓着であった。しかし、孔子と原壌はいわゆる腐れ縁で、老人になってからもなぜか行き来があった。

原壌の母親が死んだ際に彼は貧しくて葬儀を出す金もなかったので、孔子が葬儀を出してやり棺桶の作成を手伝った。しかし、原壌は棺桶を叩きながら、やおら葬儀には場違いな恋愛の歌を歌い始めた。その歌とは「狸の首はしま模様で、女の手を握ると巻きついてくる」というものであった。

この歌の内容からすると、その当時に流行していた恋人を口説く恋愛歌のようである。歌の最初の句は相手の顔の刺青模様を形容したものであろう。上の歌を解釈すれば、「あなたの顔は狸の顔のような模様で、あなたの手を握ると柔らかい」というような意味である。

葬儀の際にこのような恋愛歌を歌うのは礼儀に反しているので、門徒たちは孔子に彼の葬儀を手伝うのはやめてはどうかと忠告した。しかし孔子はそれに対して、「親戚はやはり親戚だし、幼馴染はやはり幼馴染だ」と葬儀を最後まで執り行った。

孔子が晩年に魯に帰還してからも、二人の腐れ縁は続いていたようだ。ある時に孔子が原壌を訪ねると、彼は家で地べたに座り込み両足を門の方に広げていた。

孔子は彼の行儀の悪い態度を見て「お前は若い時から礼儀のないやつで、大人になっても役立たずで、年をとってもなかなか死なないごくつぶしだ」と罵りながら、手に持った杖で彼の脚を打ったという。

野崎晃市(42)

孔子伝(36):七十にして心の欲する所に従へども矩(のり)を踰(こ)えず

知者は惑わず
知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず

孔子は七十歳になって内心の欲求と外在の道徳とが一致するようになったことを、「七十にして心の欲する所に従へども矩を踰えず」と表現した。カントが「天上の星の輝きと我が心の内なる道徳律」と語ったのと同じような意味であろう。

人間の心に利己的な欲求が残っていれば、それを律するために外部の道徳や法律による制限が必要となる。しかし、利己的な欲求が無くなり人の内在の要求と外部の道徳や法律が一致する境地にまで至れば、天の道と人の歩みは混然一体となるのである。

孔子は天下を己の任とする君子は、仁・知・勇を兼ね備えていなければならないと考えた。君子の三つの道は「仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず」であった。

孔子の「仁」とは親子間の愛情を基本的な意味とし、それを拡張して広範な人間関係と政治の領域にまで高めた普遍的な概念である。『論語』の中だけでも仁に言及した部分は百箇所以上に及んでおり、仁が孔子と門徒たちの話題の中心の一つであったことが分かる。

「孝悌はそれ仁の本為るか」
(父母兄弟に孝順であること、それが仁をなすことの根本である。)

「それ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。よく近く取りて譬ふ、仁の道というべきのみ」
(仁者は自分が独立しようと志せば他人の独立も助けるものであり、自分が目的を達成しようと思えば他人が目的を達成するのを助けるものだ。常に他者を自分のように考える。それが仁者というものだ。)

「己に克ちて礼に復するを仁となす」
(利己を抑え礼に復帰することが仁である。)

知とは物事に通じ理解する能力であり、仁を社会で効果的に運用するには知が必要である。孔子は「仁を好みて、学を好まざれば、其の弊や愚」と述べている。良い人だけれども愚鈍なデクノボウに終わらないためには、仁は知によって補完される必要があった。

勇とは理想を実行するために、畏れず大胆に行動する力である。「仁者は必ず勇有り」とあるように、勇は仁と結合されていなければならない。勇気をもって前に進んでこそ、仁は不仁との闘争の中で理想を実現できるのである。

孔子は門弟たちにも、仁・知・勇を兼ね備えた人間となるよう励ました。この共通の理想が孔子と門徒たちを結び付け、たとえ理想が完全には実現できなくても、彼らの努力は怠ることがなかったのである。

野崎晃市(42)

孔子伝(35):顔回(がんかい)の死

陋巷
顔回が住んでいた陋巷


顔回は学問を好み一を聞いて十を悟るような聡明な人物で、孔子からは実の息子のように可愛がられていた門徒だった。顔回は陋巷と呼ばれる貧民街で質素な暮らしに満足し、孔子に従って修行と学問を続けた。

顔回は仕官や商売もせずに、修行僧のようなストイックさで徳のある生き方を追求した。孔子は顔回に「仕官の機会があれば積極的に仕事に取組み、仕官の機会がなければ隠居すればいいだけだ。これができるのは私とあなただけだ」と述べた。

顔回は経済的に恵まれず苦労が多かったのであろう、二十九歳の時にはもうすっかり白髪頭になっていた。顔回が四十一歳で早死にすると、孔子は最も優秀な継承者を失ったと失望の色を隠さなかった。

顔回の死に孔子は「ああ、天が私を滅ぼそうとしているのだ、天が私を滅ぼそうとしているのだ」と慟哭した。従者が「あなたも慟哭するのですね」と聞くと、孔子は「私としたことが慟哭して泣いていたか。彼のために慟哭するのでなければだれのために慟哭するのだ」と答えた。

顔回の父親である顔路は孔子に馬車を売って、「椁」と呼ばれる二重の棺を用意してほしいと希望した。しかし孔子は失ったばかりの自分の実子の孔鯉の葬儀でも簡素な棺しか用意しなかったことを思い出した。そのため孔子は高価な棺を用意することに同意しなかった。

しかし門徒たちが金を出し合って、手厚く顔回を葬った。孔子は「顔回は私を父親のように慕ってくれたのに、私は父親らしいことをしてやれなかった。このように手厚く葬ったのも私ではなく、あなたの同学の人たちだった」と更に心を痛めた。

孔子の弟子には子貢のような商売に才能を発揮して裕福な門徒もいたが、顔回のように徳を追求して清貧を貫く門徒もいた。そして孔子が評価したのは無位無官で財産を持たずとも、徳や仁を追求して止まない顔回のような人物であった。

現代人は人物を何かと経済的成功や社会的地位で評価しがちだが、孔子の人物評価の基準は経済第一主義の現代人にも警鐘となっているだろう。

野崎晃市(42)

孔子伝(34):門徒三千、高弟七十二人

孔子と弟子たち
孔子と門徒たち

孔子は晩年に仕官の望みが無くなると、文献の研究に集中するようになった。彼が整理した『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』などを、後世の人たちは「六経」あるいは「六芸」と呼んだ。

孔子が諸侯を遊説して回った結果、各地から多くの門徒が彼の門下に集まってきた。伝えられるところでは孔子の門徒は三千人で六芸に通じた高弟が七十余人、その大部分は孔子が魯に帰還する前後に門徒となったものであった。

孔子は各自の才能に応じて教育を施し人材の育成に力を注いだ。孔子は多くの優秀な学者と大勢の政治・軍事・外交に長じた人材を生みだした。孔子は品行と専門に応じて門徒を四つの得意分野に分類しているが、各自の代表的な人物は以下の通りである。

徳行:顔淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。
弁舌:宰我、子貢。
政治:冉有、季路。
文学:子游、子夏。

孔子は自分の後継者たちが政治で仁と義を重んじるよう希望し、眼前の小さな利益にこだわって遠大な目標を犠牲にすることがないよう諭した。その点を子夏に「あなたは君子の儒者となるべきで、小人の儒者となるべきではない」と注意した。

孔子に言わせれば、儒者にも君子と小人との区別があった。儒者は社会に有益で高尚な品格を目標とすべきであり、卑小なことにこだわって役に立たない犬儒となるべきではない。

しかし、孔子は門徒たちに希望に満ちた将来を見ることができた。それで「後生畏るべし、いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや」(若者の潜在能力は恐ろしいものだ。どうして今の我々の水準に及ばないなどと言えるだろうか。)と述べた。

野崎晃市(42)

孔子伝(33):十四年ぶりに故郷の魯国に帰還する

冉求の墓.
山東省棗荘市にある冉求の墓

孔子が衛国に戻ってしばらく後に、門徒の冉求(ぜんきゅう)が魯国で仕官することとなった。紀元前484年に斉国の軍が魯を攻撃したため、冉求は季康子の軍を引きいて斉国と城の校外で戦った。冉求は長矛で武装した兵を率いて斉軍を攻撃し、戦に勝利を得ることができた。

戦闘が終わって季康子は冉求を賞賛して、このような軍事的戦略をどこで学んだのかと尋ねた。冉求は孔子から学んだと答えた。季氏がさらに尋ねて孔子は一体どのような人物かと尋ねると、冉求はこの機会に孔子を賞賛して述べた。

「孔子を重用すればかならず名声が上がり、民を益することができます。鬼神でさえ悪事をしないようになるでしょう。しかし孔子に軍事的知識を期待してはなりません。たとえ多くの報酬を約束しても、孔子は仕官しないでしょう。」

冉求の推薦の言葉を聞いて、季康子(きこうし)はまもなく人を派遣して孔子を招聘することにした。孔子は戸惑うことなく門徒を引き連れて使節の人々と魯国に戻り、十四年の長きに渡る異国での流亡生活に別れを告げた。

孔子の一行は魯国に戻り、門徒たちや魯国の君臣の歓迎を受けた。孔子のもとに親戚や友人また朝野の人士がひっきりなしに挨拶に訪れた。ちょうど魯国は斉国に戦で勝利したばかりであったため、城内は一種のお祝いの雰囲気に溢れていた。

魯国に帰還した時に孔子は68歳になっていたが、教育と典籍の整理に力を注ぎ官職に就くことはなかった。しかし、魯の君臣や門徒たちは孔子にしばしば政治に関する意見を求めた。魯国は孔子を国老として敬い、退職した卿大夫に準じて待遇した。

野崎晃市(42)

孔子伝(32):衛国に再び戻る

衛庄公
衛国の荘公蒯聵の遺跡

孔子が衛国の都の帝丘に入ると、一種の平和と安定を享受している雰囲気を感じ取った。懐かしい土地に再び足を踏み入れ、孔子は衛国の霊公のことを思い出した。衛国では霊公の亡き後に親子で君主の地位を巡って争いが生じたが、国内の情況は次第に落ち着きを取り戻していた。

孔子が衛国の政治について子路と討論した際に、孔子は「名を正す」必要について力説した。「君は君らしく、臣は臣らしく、父は父らしく、子は子らしく」それぞれの身分をわきまえるということであった。

これは親子での権力争いが続いていた衛国から言えば、たいへんに敏感な問題でもあった。衛国の出公(しゅっこう)と敵対していたのは、晋国に亡命していた親の蒯聵(かいがい)であったからである。

孔子は「名を正す」という理論で衛国の争いを調停しようとしたが、とうてい衛国の朝廷に用いられるはずもなかった。それゆえ、衛国の出公も執政の孔圉(こうぎょ)も孔子の訪問に歓迎を表明し賢者に対する礼をもって待遇したものの、結局のところ重用されることはなかった。

孔子は衛国で用いられそうにないとわかると、主に文化や学術研究に力を入れることにした。孔子は伝統文化の保護を使命とし、自己の晩年に詩・書・礼・楽その他の書物を執筆して、それらを後の世に残す事を決意した。

この時期の学術的著作と研究により、孔子が魯国に戻った時にはすぐに「六芸」の全面的な整理と完成を見ることができたのである。こうして、孔子と門徒は衛国の宮廷や民間における詩や礼儀の研究に従事した。

野崎晃市(42)

孔子伝(31):天下の木鐸(ぼくたく)

儀封人孔子
儀の封人が孔子と会見した場所

孔子が楚の町である負函を離れたのは、およそ紀元前486年の夏から秋にかけてである。彼らが衛国に戻る際の道のりは、西に向かい陳(ちん)・儀(ぎ)・蒲(ほ)などを経て衛の都である帝丘に至った。

この年に陳国は楚国から攻撃され敗北したばかりで、ちょうど陳国の民が楚人の監督の下で城門を修復しているところであった。孔子に従っていた門徒たちの幾人かは陳国の出身で、おそらく彼らは故郷の戦禍による破壊を目にして家族を探していたのであろう。

孔子が諸侯の間を遊歴している間に重病にかかったことが知られているが、これはおそらくこのたびの陳国での滞在期間のことと思われる。またこれは孔子が陳国で半年以上滞在した合理的な説明ともなる。

この度の病気は過去の病気より重く、数日間も好転する兆しが見られず、門徒たちはみな大変に心配した。子路は孔子が健康を回復するようにと神に祈りを捧げようと計画した。当時の病状が悪化した時には、子路が門徒たちを組織して葬儀を準備しようとした事さえあった。

病床の孔子は子路が自己のために祈祷を捧げようとしている事を知ると、子路にそれがほんとうかどうかと尋ねた。子路はその計画があることを打ち明けた。孔子はこのことを阻止しようとしたが、自分はすでに祈祷したから再び祈祷する必要はないと子路に伝えた。

数日の後、孔子の病状はいくらか好転して良くなった。孔子は子路と門徒たちが家臣の礼を取って葬儀を準備しようとしたと聞くと、いくらか不機嫌になり子路を責めて言った。

「仲由(子路)はもう長い期間嘘をついている。私には家臣などいないのに家臣がいるかのような嘘をついている。私は誰を騙すのか、天を騙すというのか。それに、私は家臣などに葬儀をしてもらうより、あなたたちに葬儀をしてもらいたい。たとえ大きな葬儀ができないといっても、まさか路上で死ぬような事はないだろう。」

病気が癒えて体力が回復すると、孔子は再び祖国への帰途を進み始めた。彼らは宋国の西北の町である儀(ぎ)を通り、そこで当地の人々から歓迎を受けた。

儀の長官が孔子との会見の後に、次のように述べた。「あなた方はどうして先生が仕官先を失ったことを心配しているのですか。天下に道が行われなくなって久しいので、天はみなさんの先生を木鐸としたのでしょう。」

木鐸とは法令を宣告する際に打ち鳴らす鈴のようなもので、人々を覚醒させ注意を喚起するために用いられた。儀の長官の言葉は、孔子と門徒たちの困難な旅行に対する慰めであった。

野崎晃市(42)

孔子伝(30):楚の隠者たちと語る

子路
子路が船着き場を尋ねた場所

孔子は負函に滞在中に葉公が楚王に紹介してくれるのを期待したが、葉公からは何の音沙汰もなかった。孔子たちは自分たちだけで楚国へ向かうため、付近の川で船に乗ろうとした。

まず、子路を遣わして川を渡るための船着場がどこにあるか尋ねさせた。農民の長沮(ちょうそ)と桀溺(けつでき)はそれぞれ農具を持って、畑で肩を並べて土地を耕していた。

長沮「あの車の上で馬の手綱を握っているひとは誰だい?」
子路「孔丘という人です。」
長沮「魯国の孔丘かい?」
子路「そうです。」
長沮「彼なら当然に船着場を知っているはずだ。」

子路は再び桀溺に尋ねた。
桀溺「あなたはどこの誰だい?」
子路「私は仲由という者です。」
桀溺「孔丘の門徒かい?」
子路「そうです。」
桀溺「どこも乱れきった世の中だ。あなたはいったい誰とこの世の中を変えようというのか?あなたとあなたの門徒たちは悪い人たちとの交友を避けているそうだが、それならどうして我々のようにこの悪い世間との交友を避けないのか?」

子路は彼らの言葉を孔子に告げると、孔子は嘆息して言った。
「人は鳥や獣と一緒にすむことはできない。もし我々が世の人々と生活するのでなければ、いったい誰と生活するのか。もし天下が太平で公平ならば、我々が社会を変革しようと努力する必要はないであろうに。」

これらの人は自給自足に近い生活を送る隠者たちで、自由を犠牲にしてまで政治に参加する必要はないと考えていた。しかし、彼らの世俗を避けた生活は、孔子の同意できるところではなかった。孔子からすれば、動物とは異なる人間の価値は政治における理想を追求することで発揮するべきものであった。

この時に衛国に仕官していた門徒から知らせがあり、衛の出公が孔子を重用する意志があるので孔子に衛国に戻ってくるようにと伝えてきた。そこで孔子は衛国に行き、次の行き先が決まるまで衛に滞在することにした。一人の名前を接輿(せつよ)という楚の狂人が、まるで孔子を見送りに来たかのように孔子の前に現れて歌を歌った。

鳳凰よ、鳳凰よ
あなたの徳はどうして衰えたのか?
過ぎてしまったことは改める事はできないが、
将来はなお改める事ができる。
やめたほうがいい、やめたほうがいい。
今の政治に関わるのは危ない。

孔子はこれを聞くとすぐに車から降りて、この狂人と話をしようと思ったが、狂人はあわてて立ち去ってしまったので話すことができなかった。「この人物も隠者だろう」と孔子は思った。

野崎晃市(42)

孔子伝(29):葉公(しょうこう)との会見

葉公
河南省平頂山市葉県にある葉公陵園

孔子たち一行の食料が絶えて七日目に、ようやく負函(ふかん)に派遣した荷車が食料を運んで到着した。負函は陳国と楚国の境にある町で、現在の河南省平頂山市葉県にあたる。当時は楚国の貴族である葉公(しょうこう)が治めていた。

孔子たちが負函に到着すると、葉公が迎えに出て孔子たちを慰労した。それで孔子は葉公の勧めを受け入れて、葉公の仲介で新たに即位した楚国の恵王と連絡を取ることにした。

葉公が孔子に政治の問題について教えを請うと、孔子は「近くの者を喜ばせれば、遠くの者もおのずから来る」と答えた。当時の負函周辺では戦乱を避けて移住する者が多かったためである。

葉公はまた孔子に訴訟の問題について教えを請うた。葉公はたいへん正直で有名な人物が、自分の父親が羊を盗んだといって通報してきたが、この件をどう思うかと孔子に尋ねた。孔子は自分の故郷の正直な人はこの人とは異なっており、父親は子供の罪を隠し子供は父親の罪を隠すものであると答えた。

おそらく思想上の差があったためであろう、葉公は孔子に対し理解できないものを感じ慎重に接した。葉公は門徒の子路に孔子について尋ねたが、子路は説明できず黙って帰った。孔子はそれを聞いて、子路に次のように言った。

「孔丘という人は発奮すればご飯を食べるのも忘れて、一方で楽しければ心配事を忘れて年をとるのも気にかけない、そのような人ですと言えばよかったのだ。」

孔子は負函に滞在中に門徒を派遣して楚国と連絡を取らせたが、満足のいく結果を得ることができなかった。負函には三年近く滞在したが、楚国の首都へ行き楚王と会見する計画は実現できそうになかった。

野崎晃市(42)

孔子伝(28):君子固より窮す

新蔡県
河南省新蔡県の孔子廟

孔子が滞在していた頃、陳国は呉国と楚国の両大国が勢力を争う場となっていた。臥薪嘗胆で有名な呉王夫差が力を付けて、しばしば陳国に攻め入ったからだ。楚国の昭王は陳国を楚の同盟国とみなし、陳国を救出するため軍を率いて出発した。

しかし楚の昭王は陣中で病没し、楚軍は葬儀のために撤退した。まもなく呉軍が陳国に侵略してくるという噂が高まったため、孔子は門徒たちと楚国へ逃れることにした。陳国から楚国に向かう途中で、孔子たち一行は食料が底を尽き深刻な飢餓に直面した。

子路と子貢は野外で食料を探したが、これといった食品を見つけることができなかった。孔子は部屋で琴を持ち出してきて弾きながら「詩・小雅」の中の徴兵に駆り出された農夫の怨みを込めた詩を吟じ始めた。
 
どの草が枯れないだろうか。
どの日に徴兵がないだろうか。
どの人が戦争に行こうとしないだろうか。
四方を経営するために。

どの草が死んでしまわないだろうか。
どの人が孤独を味合わないだろうか。
哀れな徴兵された男たちは、
もう人とは見なされない。

野牛でもなく、虎でもないのに
どうして荒野を連れ回されるのか。
哀れな徴兵された男たちは、
朝夕休むことも許されない。

子路が先に部屋に入って孔子に尋ねた。「君子も貧しくて困ることがありますか?」

孔子は琴を弾く手を止めて、子路をちらと見てから冷淡に言った。
「君子はそもそも貧しく困っているものだ。一方、小人は貧しいとすぐに乱れる。」

孔子のこの言葉は警鐘のように子路を反省させた。孔子は門徒たちを集めて、彼らと討論を始めた。

孔子「野牛でもないのに虎でもないのに、荒野を連れまわされると詩にあるが、私たちはどうしてこんなに困難に遭うのか。」

子路「主張が他の人に採用されないのは、仁と智の両方にまだ未熟な部分があり、それで人から認められないのだ。」

子貢「主張が他の人に採用されないのは目標が余りにも高すぎて人に理解されないからであり、採用されたければ目標を低くするべきだ。」

孔子「伯夷や叔斉のような仁者でも餓死をした。また王族の比干のような智者でも殺害された。これは仁者や智者でもしばしば災難に遭うと言うことである。一方で世俗に迎合するため目標を下げれば、理想を放棄せざるを得ない。これも受け入れられるものではない。」

顔回「先生の主張は正しいが、他の人が採用しないのは彼らの方に問題があるからだ。主張が正しくないのならそれは我々の恥辱だ。しかし主張が正しいのに用いられないとしたら、それは各国の権力者の恥辱である。正しい主張なのに人に採用されなかったとしても、自分が正しいと信じる道を貫くのが君子である。」

孔子「顔氏の息子はとてもりっぱだね。もし顔回が将来出世したら、私を雇ってもらおう。」

この言葉を聴いて門徒たちの間に笑い声が広がった。この討論を通じて、門徒たちの心のわだかまりは解けて心に余裕が出てきたようだった。

野崎晃市(42)
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