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飯山一郎の白蛇様
『文殊菩薩』  What?  Photo 末世の争乱近し.英雄出ず.ひたすら健康延命図るべし.

※ 一日一食は聖者の食事。一日二食は人間の食事。一日三食は動物の食事。 記 事    

孔子伝(31):天下の木鐸(ぼくたく)

儀封人孔子
儀の封人が孔子と会見した場所

孔子が楚の町である負函を離れたのは、およそ紀元前486年の夏から秋にかけてである。彼らが衛国に戻る際の道のりは、西に向かい陳(ちん)・儀(ぎ)・蒲(ほ)などを経て衛の都である帝丘に至った。

この年に陳国は楚国から攻撃され敗北したばかりで、ちょうど陳国の民が楚人の監督の下で城門を修復しているところであった。孔子に従っていた門徒たちの幾人かは陳国の出身で、おそらく彼らは故郷の戦禍による破壊を目にして家族を探していたのであろう。

孔子が諸侯の間を遊歴している間に重病にかかったことが知られているが、これはおそらくこのたびの陳国での滞在期間のことと思われる。またこれは孔子が陳国で半年以上滞在した合理的な説明ともなる。

この度の病気は過去の病気より重く、数日間も好転する兆しが見られず、門徒たちはみな大変に心配した。子路は孔子が健康を回復するようにと神に祈りを捧げようと計画した。当時の病状が悪化した時には、子路が門徒たちを組織して葬儀を準備しようとした事さえあった。

病床の孔子は子路が自己のために祈祷を捧げようとしている事を知ると、子路にそれがほんとうかどうかと尋ねた。子路はその計画があることを打ち明けた。孔子はこのことを阻止しようとしたが、自分はすでに祈祷したから再び祈祷する必要はないと子路に伝えた。

数日の後、孔子の病状はいくらか好転して良くなった。孔子は子路と門徒たちが家臣の礼を取って葬儀を準備しようとしたと聞くと、いくらか不機嫌になり子路を責めて言った。

「仲由(子路)はもう長い期間嘘をついている。私には家臣などいないのに家臣がいるかのような嘘をついている。私は誰を騙すのか、天を騙すというのか。それに、私は家臣などに葬儀をしてもらうより、あなたたちに葬儀をしてもらいたい。たとえ大きな葬儀ができないといっても、まさか路上で死ぬような事はないだろう。」

病気が癒えて体力が回復すると、孔子は再び祖国への帰途を進み始めた。彼らは宋国の西北の町である儀(ぎ)を通り、そこで当地の人々から歓迎を受けた。

儀の長官が孔子との会見の後に、次のように述べた。「あなた方はどうして先生が仕官先を失ったことを心配しているのですか。天下に道が行われなくなって久しいので、天はみなさんの先生を木鐸としたのでしょう。」

木鐸とは法令を宣告する際に打ち鳴らす鈴のようなもので、人々を覚醒させ注意を喚起するために用いられた。儀の長官の言葉は、孔子と門徒たちの困難な旅行に対する慰めであった。

野崎晃市(42)

孔子伝(30):楚の隠者たちと語る

子路
子路が船着き場を尋ねた場所

孔子は負函に滞在中に葉公が楚王に紹介してくれるのを期待したが、葉公からは何の音沙汰もなかった。孔子たちは自分たちだけで楚国へ向かうため、付近の川で船に乗ろうとした。

まず、子路を遣わして川を渡るための船着場がどこにあるか尋ねさせた。農民の長沮(ちょうそ)と桀溺(けつでき)はそれぞれ農具を持って、畑で肩を並べて土地を耕していた。

長沮「あの車の上で馬の手綱を握っているひとは誰だい?」
子路「孔丘という人です。」
長沮「魯国の孔丘かい?」
子路「そうです。」
長沮「彼なら当然に船着場を知っているはずだ。」

子路は再び桀溺に尋ねた。
桀溺「あなたはどこの誰だい?」
子路「私は仲由という者です。」
桀溺「孔丘の門徒かい?」
子路「そうです。」
桀溺「どこも乱れきった世の中だ。あなたはいったい誰とこの世の中を変えようというのか?あなたとあなたの門徒たちは悪い人たちとの交友を避けているそうだが、それならどうして我々のようにこの悪い世間との交友を避けないのか?」

子路は彼らの言葉を孔子に告げると、孔子は嘆息して言った。
「人は鳥や獣と一緒にすむことはできない。もし我々が世の人々と生活するのでなければ、いったい誰と生活するのか。もし天下が太平で公平ならば、我々が社会を変革しようと努力する必要はないであろうに。」

これらの人は自給自足に近い生活を送る隠者たちで、自由を犠牲にしてまで政治に参加する必要はないと考えていた。しかし、彼らの世俗を避けた生活は、孔子の同意できるところではなかった。孔子からすれば、動物とは異なる人間の価値は政治における理想を追求することで発揮するべきものであった。

この時に衛国に仕官していた門徒から知らせがあり、衛の出公が孔子を重用する意志があるので孔子に衛国に戻ってくるようにと伝えてきた。そこで孔子は衛国に行き、次の行き先が決まるまで衛に滞在することにした。一人の名前を接輿(せつよ)という楚の狂人が、まるで孔子を見送りに来たかのように孔子の前に現れて歌を歌った。

鳳凰よ、鳳凰よ
あなたの徳はどうして衰えたのか?
過ぎてしまったことは改める事はできないが、
将来はなお改める事ができる。
やめたほうがいい、やめたほうがいい。
今の政治に関わるのは危ない。

孔子はこれを聞くとすぐに車から降りて、この狂人と話をしようと思ったが、狂人はあわてて立ち去ってしまったので話すことができなかった。「この人物も隠者だろう」と孔子は思った。

野崎晃市(42)

孔子伝(29):葉公(しょうこう)との会見

葉公
河南省平頂山市葉県にある葉公陵園

孔子たち一行の食料が絶えて七日目に、ようやく負函(ふかん)に派遣した荷車が食料を運んで到着した。負函は陳国と楚国の境にある町で、現在の河南省平頂山市葉県にあたる。当時は楚国の貴族である葉公(しょうこう)が治めていた。

孔子たちが負函に到着すると、葉公が迎えに出て孔子たちを慰労した。それで孔子は葉公の勧めを受け入れて、葉公の仲介で新たに即位した楚国の恵王と連絡を取ることにした。

葉公が孔子に政治の問題について教えを請うと、孔子は「近くの者を喜ばせれば、遠くの者もおのずから来る」と答えた。当時の負函周辺では戦乱を避けて移住する者が多かったためである。

葉公はまた孔子に訴訟の問題について教えを請うた。葉公はたいへん正直で有名な人物が、自分の父親が羊を盗んだといって通報してきたが、この件をどう思うかと孔子に尋ねた。孔子は自分の故郷の正直な人はこの人とは異なっており、父親は子供の罪を隠し子供は父親の罪を隠すものであると答えた。

おそらく思想上の差があったためであろう、葉公は孔子に対し理解できないものを感じ慎重に接した。葉公は門徒の子路に孔子について尋ねたが、子路は説明できず黙って帰った。孔子はそれを聞いて、子路に次のように言った。

「孔丘という人は発奮すればご飯を食べるのも忘れて、一方で楽しければ心配事を忘れて年をとるのも気にかけない、そのような人ですと言えばよかったのだ。」

孔子は負函に滞在中に門徒を派遣して楚国と連絡を取らせたが、満足のいく結果を得ることができなかった。負函には三年近く滞在したが、楚国の首都へ行き楚王と会見する計画は実現できそうになかった。

野崎晃市(42)

孔子伝(28):君子固より窮す

新蔡県
河南省新蔡県の孔子廟

孔子が滞在していた頃、陳国は呉国と楚国の両大国が勢力を争う場となっていた。臥薪嘗胆で有名な呉王夫差が力を付けて、しばしば陳国に攻め入ったからだ。楚国の昭王は陳国を楚の同盟国とみなし、陳国を救出するため軍を率いて出発した。

しかし楚の昭王は陣中で病没し、楚軍は葬儀のために撤退した。まもなく呉軍が陳国に侵略してくるという噂が高まったため、孔子は門徒たちと楚国へ逃れることにした。陳国から楚国に向かう途中で、孔子たち一行は食料が底を尽き深刻な飢餓に直面した。

子路と子貢は野外で食料を探したが、これといった食品を見つけることができなかった。孔子は部屋で琴を持ち出してきて弾きながら「詩・小雅」の中の徴兵に駆り出された農夫の怨みを込めた詩を吟じ始めた。
 
どの草が枯れないだろうか。
どの日に徴兵がないだろうか。
どの人が戦争に行こうとしないだろうか。
四方を経営するために。

どの草が死んでしまわないだろうか。
どの人が孤独を味合わないだろうか。
哀れな徴兵された男たちは、
もう人とは見なされない。

野牛でもなく、虎でもないのに
どうして荒野を連れ回されるのか。
哀れな徴兵された男たちは、
朝夕休むことも許されない。

子路が先に部屋に入って孔子に尋ねた。「君子も貧しくて困ることがありますか?」

孔子は琴を弾く手を止めて、子路をちらと見てから冷淡に言った。
「君子はそもそも貧しく困っているものだ。一方、小人は貧しいとすぐに乱れる。」

孔子のこの言葉は警鐘のように子路を反省させた。孔子は門徒たちを集めて、彼らと討論を始めた。

孔子「野牛でもないのに虎でもないのに、荒野を連れまわされると詩にあるが、私たちはどうしてこんなに困難に遭うのか。」

子路「主張が他の人に採用されないのは、仁と智の両方にまだ未熟な部分があり、それで人から認められないのだ。」

子貢「主張が他の人に採用されないのは目標が余りにも高すぎて人に理解されないからであり、採用されたければ目標を低くするべきだ。」

孔子「伯夷や叔斉のような仁者でも餓死をした。また王族の比干のような智者でも殺害された。これは仁者や智者でもしばしば災難に遭うと言うことである。一方で世俗に迎合するため目標を下げれば、理想を放棄せざるを得ない。これも受け入れられるものではない。」

顔回「先生の主張は正しいが、他の人が採用しないのは彼らの方に問題があるからだ。主張が正しくないのならそれは我々の恥辱だ。しかし主張が正しいのに用いられないとしたら、それは各国の権力者の恥辱である。正しい主張なのに人に採用されなかったとしても、自分が正しいと信じる道を貫くのが君子である。」

孔子「顔氏の息子はとてもりっぱだね。もし顔回が将来出世したら、私を雇ってもらおう。」

この言葉を聴いて門徒たちの間に笑い声が広がった。この討論を通じて、門徒たちの心のわだかまりは解けて心に余裕が出てきたようだった。

野崎晃市(42)

孔子伝(27):六十にして耳順う

孔子像
河南省淮陽にある巨大な孔子像

孔子の一行は紀元前492年ころに陳国に到着した。陳国は南方の小国で都は宛丘(現在の河南淮陽)にあり、蔡国と楚国に国境を接していた。陳国は楚の霊王の時代に楚に滅ぼされたが、楚の平王が即位後に再び国が復興した。当時の陳の君主の湣公(びんこう)は、陳が復興してから三代目の君主である。

孔子は陳に到着すると、陳の大夫であった司城貞子(しじょうていし)を通じて陳の湣公に会見を申し出た。陳の君主はこの中原から来た有名人と一群の門徒たちの訪問を喜び、貴賓として扱い最も良い宿舎を与えて彼らに住まわせた。

孔子は魯定公十三年に魯国を離れ、中原諸国の諸国を六年近くも転々としながら様々な苦難に直面した。ようやく陳国で落ち着いて三年ほど思索の日々を送ることができるようになったが、孔子はすでに六十歳となっていた。

様々な苦難を経験してようやく落ち着く先を見つけた孔子は、自己の多年にわたる探求と経験を振り返る余裕ができたのであろう。その自己の体験から来た心得の一つが、「中庸」の発見と理論化であった。

「中庸」の「中」とは孔子の思想において、矛盾する双方の立場が拮抗する場に出現する均衡状態である。「中庸」の「庸」とはすなわち凡庸という言葉に見られるよう、普遍的あるいは一般的という意味である。

つまり「中庸」とは対立する相互の共通する点、あるいは相互の対立により出来た均衡状態のことである。その「中庸」の位置を探ることで、相互の統一を保持し協調させるという考え方であった。

子張と子夏のどちらが賢いかと尋ねると、孔子は子張は積極的にやり過ぎるが、子夏は慎重すぎて不足しているといった。それで子貢は「ならば子張のほうが勝っていますか?」と尋ねると、孔子は「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」と答えた。やり過ぎるのも不足でたりないのもどちらも偏っているので、その中間がちょうどいいということである。

孔子は「六十にして耳順う」と述べている。孔子は六十歳にもなると若い頃は過激に傾きがちであった思想が、年を取って丸くなり「中庸」に近づいたと感じていた。

野崎晃市(42)

孔子伝(26):宋国から追い出される

宋国故城
河南省商丘市にある宋国の遺跡

衛国の霊公が逝去すると、衛国では次の君主の地位を巡る内戦が発生した。そこで紀元前493年ごろ、孔子一行は衛国を後にして宋国へと向かった。宋国は孔子の祖先の土地であり、孔子の夫人も宋国の人であったので親しみを感じたためであろう。

しかし宋国は孔子の到来をあまり歓迎しなかったようである。孔子のほうから宋の景公に謁見を求めて会談したものの、孔子はその場で大難題を吹っかけられた。

景公「私は国家を長く存続させ、たくさんの都市を手に入れ、民衆には疑いの念を抱かせず、士人には力を尽くさせ、季節は時宜に合わせ、聖人にはどんどん来てもらい、役人をよく管理したいとおもっているのだが、どうしたらいいか?」

孔子「他の国の君主も私に各種の質問をしましたが、あなたのようにこんなにたくさんの事を一度に質問した人はこれまでいません。」

孔子「私が以前に聞いたところでは、隣国と仲良くすれば、国家は長く存続します。君主が臣下を尊重し、臣下が君主に忠実であれば、多くの都市を手に入れる事が出来ます。無辜の人間を殺さず、有罪のものを野放しにしなければ民は疑うことはありません。俸禄が多ければ、士人は力を尽くします。天と鬼神を尊敬すれば、季節は適時となります。道徳を高めれば、聖人がやって来ます。能力がある人間を任じ、能力のないものを辞めさせれば、役人はよく管理できるでしょう。」

景公「よろしい。誰もそうあるべきでないとは言わないだろう。しかし私にはできない。とても実行できない。」

孔子はこれらの実行はさほど難しくなく、ただ着実に実行してゆけばよいのだと答えた。しかし、景公はもはや再び話を聞こうとはしなかった。

さらに孔子を失望させたのは宋国の司馬であった桓魋(かんたい)の嫌がらせであった。この人物は奢侈を好み、公的資金を流用して死体が腐乱するのを避けるため巨大な石棺を作らせていた。孔子は彼の政治的腐敗に、たまらず憤慨して言った。「こんな奢侈をするようでは、早く死んで腐ってしまったほうがいい。」

この言葉が桓魋の耳に入ったのであろう、桓魋は孔子に嫌がらせをするようになった。孔子が宿舎としていた場所には大樹があり、しばしば孔子は門徒たちとその大樹の下で門徒たちに講義をしていた。桓魋はわざと人を送ってこの大樹を切り倒して、嫌がらせをしたのである。

門徒たちはとても心配して、直接的な暴力による報復が降りかかることを恐れた。しかし孔子は「天が私に徳を授けたのだから、桓魋ごときになにができよう」と述べた。

しかし、桓魋が孔子への直接行動に出るという噂が聞こえて来た。そこで、孔子たちは桓魋に気が付かれないように、一般人のように変装をして数組に分かれてこっそりと抜け出した。桓魋が人を派遣して追わせた時には、孔子たち一行が立ち去ってかなりの時間がたっていた。

野崎晃市(42)

孔子伝(25):美女の南子(なんし)と会見する

南子
映画「孔子」で南子を演じる周迅

南子(なんし)はもともと宋国の姫で、衛国の君主の霊公に嫁いでからも宋国の貴族との不倫が噂されていた。しかしこの女性は若くて美貌であったので、深く霊公の寵愛を受け衛国の朝廷で政治に干渉することさえあった。

彼女は孔子の名望をかねてより慕っており、この聖人と話してみたいと思っていた。そこで彼女は人を孔子の下に遣わして面会を申し出た。

「四方から来た貴賓は、私たちの国の君主に会見したいと思うなら、先に必ず私のところに挨拶にきます。私も一度お会いしてみたいと思っておりました。」

南子は孔子がとても礼儀にうるさい人間であると聞いて、会見の際にわざわざ玉石を身に付け衣服にも気を配り、薄いカーテンに遮られた部屋の中で待ち受けていた。

カーテンに遮られてはっきりと美貌を見ることはできず、ただ彼女が答礼をするさいに身に着けている玉器が音を立てるのが聞こえた。

会見が終わって、孔子が門徒たちに南子が示した礼儀の正しさを賞賛した。子路はそれに反論して、あのような妖艶な女性に会いに行くのは評判を悪くすると述べた。

この子路の態度を見て、孔子は誤解されたのではないかと不安になった。そこで天を指して誓って言った。「もし私にやましい事があるならば、天が私を棄てるだろう。天が私を棄てるだろう。」

この孔子と南子との会見は無駄ではなかった。その後に孔子の門徒の幾人かは才能を認められて衛で仕官先を見つけることができた。例えば、高柴は刑罰などを執行する司法官である士師に、子路は蒲邑の宰に任じられた。

しかし数カ月後に霊公と南子が馬車で城内を巡った時のことである。孔子は二台目の馬車に乗るよう指示され、彼らと共に市内を巡らされた。孔子は「私は徳を美女より熱心に追及する人を見たことがない」と落胆の言葉を残した。

南子のその後であるが、霊公の別の夫人の子蒯聵(かいがい)が南子の不倫をとがめて暗殺未遂を起こし、霊公に国外追放される。しかし霊公の死後に跡継ぎ争いを経て蒯聵が荘公として即位すると、南子は淫婦として即座に殺され悲惨な最期を遂げる。

美しいバラには刺があるように、妖艶な美女に身を誤らないようご用心のほどを。

野崎晃市(42)

孔子伝(24):蒲(ほ)で反乱兵に囲まれる

孔子遺跡
河南省長垣県(旧名:蒲)で孔子を記念する像

孔子らは匡で保釈された後に陳国へ向かう道を急いだが、またも途中で蒲(ほ)の人々に行く手を遮ぎられた。衛国の公孫戌(こうそんじゅ)は霊公に放逐された後、この町に逃れて反乱を策動していたからである。彼は孔子を脅迫してこの反乱に加わらせ、自己の勢力を拡大しようと考えた。

孔子の門徒たちは蒲の兵と小競り合いを始め、双方はしばらく剣を手ににらみ合いが続いた。蒲人は孔子たちが意にならないのを見て留めおくことを諦め、交換条件を持ち出してきた。条件は衛国の帝丘に戻らないことを誓うなら、孔子たちを解放するというものであった。

孔子はその条件に同意して、双方が誓いを立てた。しかし、蒲の町を離れると孔子はすぐに馬車の方向を変えて帝丘へ戻るよう命じた。子貢は不思議に思って尋ねた。

子貢「先ほど誓いを立てたはずですが、すぐに破るのですか?」
孔子「あれは脅迫されて立てた誓いだ。誓約の神も気にはすまい」

衛の霊公は孔子が帰ってくるという消息を聞いて喜び、自ら城外にまで迎えに出かけた。孔子一行が蒲で示した態度が、孔子が公孫戌と反乱を企てているという疑いを晴らしたからであった。

霊公は孔子を見ると、蒲邑を討伐するべきかどうか尋ねた。孔子は討伐するべきだと答えた。霊公は孔子の意見はもっともだと感じたが、それでも蒲を討伐する決心を下すことができなかった。

公叔戌が蒲に立てこもって衛に反乱していた期間は長くはなかった。情況が不利なのを見て、公叔戌は前496年に魯国へ亡命したからである。数年後に、この蒲の町は孔子の弟子の子路が治める町となる。

孔子と門徒たちは匡と蒲で二度の災難を経験し、しばらく衛国に滞在した方が安全であると思いなおした。衛国で生活をするため、大夫の蘧伯玉(きょはくぎょく)に仕事の斡旋を頼んだ。

そこへ霊公夫人の南子から孔子に会いたいとの希望が伝えられた。南子は美しい妖艶な女性として知られており、孔子とこの美女の会見は様々な憶測を呼んだ。

野崎晃市(42)

孔子伝 (23): 匡(きょう)で監禁される

匡 (2)
河南省長垣県の匡城遺跡


衛国から出発する際に、公良孺(こうりょうじゅ)という名前の貴族出身の青年も孔子に従うことになった。公良孺は陳国の出身で、孔子の一行は彼の案内で陳国に行こうと考えていた。

しかし、孔子の一行が匡(きょう)という町を過ぎる時に、大きな災難が孔子の一行を待ち受けていた。匡は衛国の帝丘から西南に百二十余里の場所に位置し、以前に陽虎が軍を率いて侵略したため人々は陽虎を大変に憎んでいた。

ところが孔子たちの馬車を御していた従者の顔刻(がんこく)が、以前に陽虎の軍に参加して匡を攻撃した時のことを語り始めた。顔刻(がんこく)に悪気はなかったのだが、これが匡の住人を刺激するとまでは思いが至らなかったのであろう。

顔刻の話が匡の支配者の耳に入ると、彼らは直ちに兵を率いて孔子と門徒たちを追ってきた。孔子の一行は陽虎の仲間と勘違いされてしまったのである。

孔子一行は拘禁されていた期間に何度も尋問を受けた。子路は憤懣やるかたなく、暴れて脱獄しようかと考えていた。孔子は獄舎で琴を演奏し始め、子路を制止して門徒たちに問いかけた。

「周の文王が世を去った後、その文化の伝承が我々の身に与えられた使命だったのではないか。もし天が見棄てようとしているのならば、私が学ぶ事もできなかっただろう。もし天が見棄てていないのであれば、匡人ごときが何をできるというのか。」

孔子が文化の伝承者としての使命を語ると、門徒たちもこの使命感に鼓舞される思いがした。

「子路が歌を歌いなさい。私が琴を伴奏しよう。」

子路が歌い始めると門徒たちも一緒に歌い始め、彼らの歌声は周囲に響き渡った。看守も様子を身に来て、いくらか緊張が解けている様子であった。

孔子たちは拘禁されてから数日後に疑いが晴れて、ようやく釈放された。孔子の一行は保釈されると、陳国へ向かう道を急いだ。

野崎晃市(42)

孔子伝(21):孔子の失脚と衛国への亡命

衛国
衛国の復元された門

孔子の失敗が明らかとなり失脚してほどなく、孔子は病の床に伏し幾日も起き上がることができなかった。魯の定公が見舞いに訪れた際に、孔子は床に臥し礼を行う事ができなかったが、なるべく礼儀正しく振舞って体調の悪い様子を見せないように心がけた。

紀元前497年の新年を迎えてすぐ、斉国から魯に女性の楽舞団が送られてきた。夾谷の会より以来、斉国は魯国をなんとか弱体化させようと考えていた。そこで十六名の歌と踊りができる斉国の美女と百二十匹の良馬を魯国に送った。

名目は親善と言う事であったが、実際には魯の君主を享楽で惑わして政治から引き離すことが狙いであった。それからというもの魯の定公は、斉の美女の歌舞に見とれて酒色に迷い政治に携わらなくなってしまった。

魯国では間もなく郊祭が挙行され、孔子は大夫の身分で参加することになっていた。そこで孔子は祭の際に大夫に配られる肉が、自分にも分配されるかどうかを見て居留を決めようと考えた。しかし孔子に肉は分配されず、孔子は君主から見棄てられたかのような屈辱を味わった。そこで、孔子は門徒たちを引き連れて国外へ逃れる決心を固めた。

「衛国に行きましょう!」と子路が述べたのは衛国で官吏となっている妻の兄にあたる顔濁鄒(がんだくしゅう)に頼れると期待したからであった。こうして孔子の十数年の長きにわたる諸国を巡る旅が始まるのである。

孔子と門徒たちは魯国から衛に向けて出発した。すると、季桓子が太師己(たいしき)という楽師を使者として思いとどまらせようとした。太師己は孔子に同情して「あなたはべつに間違ってはいない」と慰めた。孔子は言葉少なく、琴を演奏しながら歌い始めた。

あの婦人の口は、まともな人を遠ざける
あの婦人たちは、死をもたらすだろう
私は旅に出て、長生きすることにしよう

太師己は戻った後に、見てきた情況をありのままに季桓子に告げた。季桓子は孔子の歌が斉国の美女を批判しているのだということを理解した。孔子の出国に対し季桓子は無理に引きとめようとはしなかったが、思わずため息を漏らしたのであった。

野崎晃市(42)

孔子伝(20):三都毀壊

費
山東省の費邑城跡

夾谷の会での外交的勝利により、魯国は一時的に安全な状況を享受することができた。しかし陽虎の反乱の傷跡はいまだ完全に消えてはおらず、夾谷の会の後まもなく再び侯犯(こうはん)が反乱を企てる事件が発生した。

古代には各国の大夫が自己の支配下にある郊外の町を有していた。貴族自身は首都に住んでいたので、郊外の町は一般に家臣を派遣して支配していた。ところがこうした郊外の町は防衛強化のため、堅固な軍事要塞として防御を固めていた。

魯国では叔孫氏の郈(こう)、季孫氏の費(ひ)、孟孫氏の成(せい)などの三都が、そのような軍事要塞化された城壁を有していた。「三桓」が三都を支配していたのは自己の実力を強化するためであったが、そこを拠点とした家臣の反乱をしばしば招くことになった。

反乱を起こした侯犯はもともと叔孫氏の家臣で、郈邑の馬を管理する官吏として任じられていた。郈邑は魯の北境に位置し、城壁の守りが厚く守るに易く攻めるに難い町であった。

叔孫氏は二度軍を率いて包囲して攻撃したが攻め落とす事ができず、後に離反の策略を使って町民と侯犯の関係を悪化させ、侯犯が逃亡するようにし向けてこの町を取り戻した。

孔子は摂相となってまもなく「三都毀壊」を建議し、郈・費・成の三つの町の城壁を撤去するよう求めた。三都の堅固な防御施設を撤去すれば反乱の発生を防止できる上に、その余勢を借りて費を根拠地とする陽虎の残党を一掃できると訴えた。それゆえ当初は季孫氏と叔孫氏は同意を表明し、孟孫氏も反対しなかった。

しかし、孔子の「三都毀壊」の真の目的は、「三桓」の実力を抑えて魯の君主を強化することにあった。それで魯の定公も孔子の政策を積極的に支持した。孔子は「三桓」の危険を取り除くふりをして、実際には「三桓」の実力を削ぐという作戦に出たのである。

郈の城壁破壊は比較的に順調であった。そこを根拠地としていた侯犯はすでに逃亡していたので、叔孫氏が軍を率いて城壁を破壊した時にもさしたる抵抗もなかった。

しかし費邑を根拠地としていた陽虎の残党が危機感を募らせていた。彼らは費邑が破壊される前に、費人を率いて魯都を襲撃し先手を打ったのである。魯定公や三桓らはみな不意をつかれ、危ない所まで追い込まれた。

孔子は定公の危機を聞くと、直ちに兵を率いて救援に赴き費人を打ち破った。この事件が収束すると季桓子と孟懿子は軍を率いて費を攻めて城壁を破壊し、その後に子路の推薦で孔子の門徒であった子羔が費の町を管理する宰に任じられた。

成の城壁破壊は最後に計画された。成邑は魯の北の国境にあり、斉国との国境とも遠くない位置にある。しかし成の城壁破壊は成邑の宰である公斂處父(こうれんしょほ)の反対を受けた。この人物は頭の回転が速く、陽虎の乱を鎮圧して功を挙げ孟氏から信頼を受けていた。

公斂處父は君主を強化するという孔子の真の目的に気が付いていたようだ。また孟氏の当主は若いころに孔子に学んだことがあったが、公斂處父から警告を受けて兵を動かそうとしなかった。最後は魯の定公が単独で軍を出し成邑を攻撃したが、攻め落とす事ができず攻撃は失敗に終わった。

孔子にとって、三都毀壊は君主の権力を強化し国家を安定させるための政策であった。しかし三都毀壊は三桓の懐疑を招き、それまで魯の権力を握っていた三桓から得ていた信頼を失うこととなった。孔子は数年で司寇から摂相にあっという間に昇進したが、失脚するのもあっという間であった。

野崎晃市(42)

孔子伝(19):夾谷の会(きょうこくのかい)

夹谷会盟
夾谷の会の跡地


夾谷の会は孔子が魯国の大司寇だった時に参加した、斉国と魯国の二ヶ国間外交会議である。

孔子が魯国で仕官するころに、斉国は魯国の一部を占領して魯国の安全を脅かしていた。魯国は斉国と講和を結んで安全を図るとともに、斉国に占領されていた土地の返還を求めるため夾谷で会議を開くことにした。

魯国は孔子を礼儀の監督官として君主の定公と共に会議に派遣した。孔子は若いころに斉国に赴いて景公と会見したことがあり、斉国の君主に顔を知られていた。さらに斉国で脅迫されて追い出されたこともあり、斉国に対して警戒心もあった。

孔子が君主に付き従って会議に出席するとの情報が斉に伝わると、斉国の大夫は景公にこう忠言した。「孔丘は礼儀の事は知っているが勇気がなく軍事にうとい。もし両君が会見する時に武力で脅せば、きっと我々の目的が達せられるでしょう。」

会議が始まると斉国の執事が当地の舞楽を演技したいと申し出て、踊り手が手に武器を持って駆けつけてきた。孔子はこの情景を見ると、魯国の護衛に舞踊隊を殺すよう命じて君主を保護した。

孔子は駆け上がるように壇の上に登ると、斉国の無礼を責めて言った。「両国の君主が友好のために会見している場で、野蛮人が武器を持って威嚇するとは、これは不敬であり徳に対して義を失した行いで無礼です。斉国の君主はよもやこんな無礼はなさりますまい。」

斉の景公は心にやましいものを感じて、すぐに踊り手を下がらせた。斉国は魯の定公を拉致する計画が未遂に終わったものの、さらに斉国の出兵の際には魯国からも兵を出すよう要求した。孔子はすぐに返答して、魯国から兵を出す前に占領した土地を返すように要求した。

会議の後に斉の景公は魯国との関係を改善するために、占領していた三つの町を魯国に返還する約束をせざるを得なくなった。孔子は占領されていた土地を返還させ、斉という強国を前に魯国の独立と尊厳を守る事ができた。それゆえ、夾谷の会は魯国から見て外交上の重大な勝利であった。

孔子は夾谷の会で挙げた外交上の成功により、君主への忠誠を示したばかりか自己の品格と政治的才能を証明して大いに声望を高めるた。それから約二年後に孔子は代理摂相の地位に抜擢されることになる。

野崎晃市(42)

孔子伝(18):少正卯を誅殺する


曲府杏
孔子が講学したという曲阜の杏壇

『荀子』によれば孔子が魯で権力を握った際に、かつて私塾を経営していた時にライバルであった少正卯を誅殺した。しかも魯で司寇として権力を握って早くも七日目に、少正卯を誅殺し死体を3日野ざらしにするという刑を執行している。

孔子と少正卯との間にはかつて個人的な衝突もあった。孔子が塾を開くと講堂がいっぱいになるほどの生徒が集まったが、少正卯が孔子の悪い噂を広めて生徒を奪ったことが三度あった。ただ孔子の一番弟子の顔回だけが、少正卯の悪辣さを見抜いて孔子から去ることがなかったという。

もちろん、孔子は塾の経営を邪魔されたという私憤から少正卯に報復したわけではない。なぜなら、この人物の「少正」というのは姓ではなく周時代の官職名で大夫の地位にあったことを意味している。それなりの地位にある人物を死刑にするには、それなりの理由と証拠が必要だ。

それで門徒の子貢は「少正卯は魯の有名人です。先生が権力を握ってすぐにこれを殺したのは、やり過ぎではありませんか」と質問した。そこで孔子は次のように答えている。

「極悪人が五種類いるが、それは盗人などとは比べものにならない。一は心が反逆的で陰険な者。二は行いが偏っていて固執する者。三は言論が偽りであるのに雄弁な者。四は他人の悪いことばかり記憶してその範囲が広い者。五は悪事に従って勢力をなす者。これら五つのうち一つでも君子の誅殺を免れることはできないが、少正卯は五つを兼ね備えていた」

「住居では仲間を集めて徒党をくみ、その論説はよこしまな目的を飾って衆人を惑わし、その強引さは正しいことに背いていても独立して進めるほどである。このような人間こそ姦雄と呼ぶにふさわしく、死刑にせざるを得なかったのだ。」

孔子の説明からすると、少正卯は国家の中枢に権力を持ちながら国家転覆やクーデターなどを影から操っていたのではないかと思われる。魯の君主定公が即位してからというもの、陽虎や公山弗擾によるクーデターや反乱が相次いで魯の国内が不安定だったのは少正卯が背後で操っていたのかもしれない。

この孔子が小生卯を誅殺したという説は朱熹などから、聖人が権力を握ったとたんに人を殺すというのは考えられないと疑問視されてきた。しかし中国の政治の世界では、どんな優秀な政治家であっても粛清がつきまとうのである。孔子も古代の粛清の例を次のように列挙している。

「殷の湯王は尹諧を誅殺したし、周の文王は潘正を誅殺し、周公は管叔と蔡叔を誅殺し、太公望は華士を誅殺し、管仲は付乙を誅殺し、子産は史何を誅殺した。これら七人は世は異なっていても、同じように誅殺された者である。これら七人は時代が異なっていても同じように悪人だったため赦されなかったのである」

孔子には天下国家のためと信ずればある場合には血を流すこともいとわないという面があることは、後に説明する夾谷の会でも孔子がためらいなく処刑を命じていることからも見て取れる。

野崎晃市(42)

孔子伝(17):魯国の官僚となる

崇聖門
曲阜の孔子廟の崇聖門

孔子が任じられた最初の官職は、魯国の西北部の町である中都の宰であった。この宰とは現代で言えば市長のような職位だが、魯国は孔子の腕前を試験的に見るためにこの職位に任じたのであろう。

『孔子家語・相魯篇』によれば孔子が実施した政策は、老人や子供に適した食事を与え、労働を体力によって分け、男女の歩く道を分けて風紀を正した。また道で落し物を盗む者がいなくなり、道具も偽物を作る者がいなくなったという。

孔子は中都の宰に任じられてから二年すると魯国の小司空に任じられ、それからほどなくして魯国の司寇に任じられた。小司空とは土木工事をつかさどる役職であり、司寇とは司法長官の地位に当たる。貴族の出身ではない孔子が、司寇に任じられるというのは大抜擢であった。

孔子が司法長官となって風紀を正したため、妻の不倫に何の処罰もしていなかった人は妻と離婚することにした。また不正行為により蓄財していた人は、罪を恐れて魯国から逃げ出した。また牛馬を売っていた商人たちも、不正ができなくなってしまった。

しかし、孔子の出世と政策に不満を持つ者たちを集めて不穏な動きをする者が現れた。その名を少正卯と呼び、孔子の私塾時代から邪魔をしてきた人物である。以前に少正卯は孔子の悪い噂を流し、そのせいで三回孔子の私塾から門徒が消えたことがあった。

キリストにはユダ、釈迦にはダイバダッタとなぜか聖人の身近には悪辣な邪魔をしたり命を狙う者が現れる。光が強ければ影が生じるのは避けられないが、ダークサイドに落ちた者は光が妬ましくてたまらなくなるのであろう。孔子の身にも手段を択ばない悪辣な少正卯の毒牙が迫っていた。

野崎晃市(42)

孔子伝(16): 五十にして天命を知る

曲阜の至聖林の門
曲阜の至聖林の門

魯国の定公は陽虎が失脚した後に、孔子を招聘して官職に任じることにした。魯国での孔子の任職期間は四年ほどで長くはないが、孔子にとって最も誇らしい活躍をした時期であった。

魯国の権力者である季桓子は陽虎に暗殺されかけたが、幸いにも危機を脱する事ができた。季桓子が着手すべきことは自己の政治勢力を拡大し、権力基盤を固めることであった。

孔子は若い頃に季氏の田畑の管理人をしていたことがあり、仕事の評判はなかなか良好だった。陽虎の事件においても孔子の態度は慎重で、陽虎から仕官を誘われても仕えることはなかった。

外交面では魯国の混乱の隙をついて斉国が攻め入り、魯国の土地を一部占領していた。斉国に占領された土地を奪還することが魯国の課題となっていたが、孔子は斉国の景公と会見したこともあり斉国と外交交渉ができると見られていた。

これらの理由から孔子は魯国の君主の定公と貴族たちの信頼を得て、官職に任じられる事になったのであろう。これまで孔子は政治から遠ざけられてきたが、ようやく自己の理想を実践に移す機会を得ることになったのである。

孔子は「五十にして天命を知る」と述べているが、孔子が魯国で官職に任命されたのはちょうど五十歳になったころであった。五十代といえば男性が最も円熟して脂の乗り切った時期であり、孔子は精力的に働いて異例のスピードで出世を遂げていった。

孔子はまず地方行政の長官に任命された後に、司寇と呼ばれる司法長官に昇進し直接に国政に参与するようになる。

野崎晃市(42)

孔子伝(15): 陽虎のクーデターと失脚

孔子旧宅の門
曲阜の孔府大門

孔子が魯国に戻った後に魯国の君主の昭公を復位させる計画は頓挫し、そのまま昭公は七年後に亡命先の晋国で亡くなった。昭公の死後に、昭公の弟である公子宋が魯国の君主となり定公として即位した。

紀元前505年に魯国の政権を握っていた季平子が死ぬと、季孫氏の陪臣であった陽虎がその隙に乗じてクーデターを発動した。これより魯国は陽虎の支配を受けるようになり、すべての国事と政治は全て陽虎が牛耳るようになった。

陽虎は権力を握った後に自己の地位を固めるため、今まで政界から干されていた孔子にも幕僚となるよう声をかけた。三十年前には孔子を門前払いにした陽虎であったが、孔子は既に名士となっており、孔子を取り込めば自己の影響力を拡大できると見込んだのである。

陽虎は「能力がありながら、国の乱を治めようとしないのは仁と言えるだろうか。官僚になりたいと願っているのに、機会を逃すのは知と言えるだろうか。月日の立つのは早いが、年月は待ってはくれない」と孔子を勧誘した。

孔子はこの言葉を聞いて「わかりました。いずれ仕官することもございましょう」と答えた。もし陽虎からの誘いをその場で断れば、陽虎に殺される危険があったからである。しかし孔子は陽虎が数年で失脚すると予想していたため、陽虎に仕えることはなかった。

紀元前502年、陽虎は目の上のたんこぶであった以前の主人筋である季孫氏当主の季桓子を暗殺する計画を立てた。ところが孟孫氏の宰であった公斂處父(こうれんしょほ)が陽虎の計画に気づき、陽虎の兵と戦って季桓子の暗殺を未然に防いだ。

孔子の予想通り、陽虎は季桓子の暗殺が失敗すると国外への逃亡を余儀なくされた。当時の孔子は50歳となったばかりであったが、この陽虎の失脚がきっかけとなり思いがけず政界で活躍の舞台を与えられることとなる。

野崎晃市(42)

孔子伝(14): 四十にして惑わず

大成殿
曲阜の孔子廟の大成殿

孔子が斉より魯に戻って官職に就くまでの十数年の間、孔子は亡命した主君の昭公に忠誠心がありすぎるとして政治から遠ざけられた。魯国では季孫氏を中心とした「三桓」が権力を握り、主君へ忠義を示した孔子はいわば干された状態だったのである。

この時期はちょうど孔子が「四十にして惑わず」と述べた年齢に当たる。孔子も若いころは様々な可能性を試してみたくなり、利益や権力を求める生き方に心が揺らいだこともあったのかもしれない。しかし孔子は四十歳にして自分の理想とする生き方に惑わなくなった。

十数年間のこの長きに渡る歳月の中で、孔子は清貧の生活を送りながら私塾での教育に没頭した。質素な食事ときれいな水、肘を曲げて枕として寝ればそれで十分に楽しいものであった。

孔子は経済上の困窮と政治上の寂寞とを耐えながら熱情を文化教育事業に傾けたが、その中で崇高な精神生活を送ろうとした。孔子の有名な次の言葉は、この時期に発せられたものであろう。

「学んで時にこれを復習する、これは愉快な事ではないか。友人が遠方より来て語り合う、なんと楽しい事ではないか。人に知られなくても後悔しない、これが君子ではないか」

門徒を育成するに当たり孔子が掲げた目標が、この「君子」と呼ばれる高尚な品格の人物であった。孔子の「君子」という概念は『論語』の中だけでも百七回も使用されており、目標とするべき理想の人格と定義されている。

「君子」と対立する人格的概念として定義されたのが「小人」である。孔子は身分や地位にかかわらず、知識が浅薄で思慮がなく卑劣な人間を「小人」と呼んだ。孔子はしばしば「君子」と「小人」を対比し、「君子」と呼ばれるような人格者となることを目標とした。

「君子は義にさとり、小人は利にさとる」
(君子は義を追及するが、小人は利益ばかり追求する)

「君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む」
(君子は自己への要求が高く、小人は他人への要求が高い)

「君子はたいらかに蕩蕩たり、小人はとこしなえに戚戚たり」
(君子は穏やかで堂々としているが、小人はいつもコソコソしている)

門徒の子貢が当時の政治家についてどう思うかと孔子に尋ねると、孔子は皮肉たっぷりに「斗筲(としょう)の人、なんぞ数うるに足らず」と答えた。「斗筲」とは竹の小さな容器のことである。自己の利益だけを顧みて国家と民衆を顧みない権力者や官僚たちは、孔子にしてみれば器の小さな「小人」で相手にする価値もなかった。

野崎晃市(42)

孔子伝(13):斉の景公に政治を問われる

孔子聞韶処
山東省淄博市にある孔子が韶を聞いた場所

孔子は斉国に亡命した昭公を追うように斉国に赴き、昭公を魯へ復帰させるために斉国の君主であった景公に近付いた。孔子は息子の誕生時に鯉を賜り、また洛陽への留学を支援した昭公に恩義を感じていたのであろう。

しかし斉の景公は亡命してきた昭公を復位させるという大義名分で魯国に攻め込み、昭公を傀儡君主にしようと計画していた。孔子と景公とは昭公を魯国の君主へ復位させる点では一致していたものの、その目的は全く異なっていたのである。

孔子は斉国の都城である臨淄に到着すると、まず斉国の貴族の高昭子を訪問して彼の家に逗留した。彼の紹介により斉の景公との会見が決まり、景公は孔子が博学で礼をよく知ると聞き及んで政治について孔子に質問した。

景公から政治とは何かについて質問されると、孔子は「政治とは財政を節約することです」と答えた。斉の景公は毎日のように酒の宴を催し、四千匹もの馬を飼うなど必要以上の贅沢に耽っていた。一方では民衆から重税を取り立て、国内は疲弊し道には飢民が溢れていた。

孔子が節約を訴えたのは景公が贅沢をやめて重税を軽くし、民の負担を軽減するように希望したからであった。しかし贅沢以外に考えの及ばないこの斉国の君主は、孔子の批判的な意見をすこしも気にも留める様子はなかった。

そればかりか景公は孔子の答えを聞いた後に、孔子に褒美として尼谿という地方を与えることを約束した。それは景公が昭公と孔子を魯国へ攻め込む大義名分として利用しようと考えていたからである。

しかし斉国の賢人として名高い宰相の晏子が孔子を重用することに反対した。晏子によれば孔子の礼楽を重視する思想は、学びきれるものではなく実用的でない机上の空論であった。

さらに昭公の復位への支援も、斉の大夫が反対したために行き詰まってしまった。当初の魯国に攻め込んで昭公を復位させる計画は棚上げになり、昭公の復位に向けて活動していた孔子も斉国にとって利用価値がなくなった。

斉の景公は孔子を尼谿に封じると言った約束を反故にし、「あまり良い待遇で迎える事はできない」と孔子への約束を撤回した。

さらに斉の大夫が孔子を殺そうと企てているという知らせが孔子の耳に入った。孔子は斉の景公に助けを求めたが、景公からは「私は年をとったのであなたを用いることができない」と無下に断られた。

こうして孔子は門徒たちと共に斉国を離れざるを得なくなり、斉国での一年半ほどの滞在を終えて魯国へ帰国することになった。

命を狙われる緊張した状況で、洗ったお米を炊く余裕もなくそのままにして急いで逃げるようにして帰国したという。

こうして昭公の復位へ向けた活動や仕官の望みはかなわなかったが、孔子が忠義を尽くす人間であるという評判は高まった。

また斉国では「韶」と呼ばれる伝統音楽を聞いて三カ月間も食事を忘れるほど熱中するなど、孔子の礼楽や教養を深める面での熱意はますます深まっていった。

野崎晃市(42)

孔子伝(12):人間は虎より恐ろしい

泰山
泰山の頂上付近

孔子は魯の昭公が斉国に亡命してまもなく、紀元前517年頃に昭公の後を追うように斉国へ向かった。斉国は太公望を祖とし青州の隣町の臨淄を首都とする国で、当時は太公望呂尚から数えて第26代目の景公が君主であった。

孔子の一行は曲阜から臨淄へ向かう途中で、泰山という中国で最も有名な山に差し掛かった。泰山の高さ自体は1545メートルとさほど高いわけではないが、黄河平原においてはどっしりとひときわ目立つ存在である。山上の景観は仙人が住んでいそうな中国独特の岩山の風景が広がり、霊山として古今通じて信仰の対象となっている

孔子の一行が泰山の付近を通った時に、ある女性が泣いているのが見えた。子路を派遣して理由を尋ねると、夫と子供が野生の虎に食われてしまったという。そこでどうしてこんなに辺鄙な場所に住んでいるのか尋ねると、ここまでは役人が税を取り立てに来ないからだとその女性は答えた。孔子は弟子たちに「過酷な政治は虎よりも恐ろしいものだ」と述べた。

中国では今でも東北地方などで野生の虎が出没することがあり、毎年のように虎に襲われて数人の死傷者が出る。しかし虎は恐ろしくてもせいぜい一年に数人が犠牲となるだけだが、過酷な政治は時に数千万人単位で死者を出す。

中国では毛沢東時代の文化大革命で数千万人が死んだと言われているし、スターリン時代のソ連でも2000万人が死に追いやられた。日本でも第二次世界大戦では数百万人が犠牲となったし、福島からの放射能はゆっくりと日本人を絶滅に追い込もうとしている。

先日は小泉進次郎が「悲観的な考えしか持てない人口1億2千万人の国より、将来を楽観し自信に満ちた人口6千万人の国の方が、成功事例を生み出せるのではないか」と語ったらしいが、これが6000万人を間引きますよということを暗に意味しているのなら、すぐにでも逃げ出したくなるほど行く末が恐ろしい話だ。

野崎晃市(42)

孔子伝(11):魯国でクーデター勃発

八佾
八佾(はちいつ)の舞

孔子が洛陽から魯国に戻ってきたころ、国内では魯国の君主と貴族たちが緊張状態にあり政治的危機に発展していた。魯国で最も権力を握っていたのは貴族の季孫氏で、それに続いて孟孫氏と叔孫氏があった。これら三家はみな魯の桓公の子孫であったため、当時の人々からは「三桓」と呼ばれていた。

紀元前562年ごろに季孫氏の要求により魯国の政府は軍隊の改変に着手し、君主に兵卒を提供していた村落共同体は上・中・下の三軍に分けられ、「三桓」がそれぞれ一軍を率いることとなった。季孫氏らがこのような軍の改革を進めたのは、軍権を君主から奪い取って自家の私兵にするためであった。

こうして「三桓」とりわけ季孫氏の実力が増強されたが、魯国の君主の実権は大幅に低下し権力の伴わない君主となっていた。例えば季孫氏の季平子は君主のところから引き抜いた楽団と自分の家の楽団を併せて八佾(はちいつ)とし、天子だけがとり行えるとされていた八佾の舞による楽舞を主催して権力を誇示した。

これには君主の昭公もさすがに激怒し、魯国朝廷の大臣たちの間にも季平子への不満が高まっていた。昭公は季孫氏を殺す計画を立てて軍を率いて討伐に乗り出し、まず季平子の兄弟の季公之を血祭りにあげて季孫氏の門に攻め入った。ところが叔孫氏の家臣が兵を率いて季孫氏の救援に駆けつけ、孟孫氏も挙兵して昭公の部隊を撃退した。

この挙兵が失敗した事で、昭公を支持していた人たちはみな散り散りに逃げ、昭公も亡命を余儀なくされる事となった。昭公は侍従を連れて斉国へ逃げ、その後に再び晋国へ逃げその後七年にわたる亡命生活を送り最後は晋国で客死した。

孔子が洛陽から帰った後に体験したのは、こうした魯国の君臣間の争いとクーデターの勃発であった。この闘争の中で双方が示した陰謀や権力欲は、孔子の目を背けたくなるような醜いものであった。孔子は季平子の八佾の舞について、「八佾の舞はとても許せるものではない」と批判している。

国の君主たるものが君主らしく振舞わず、臣下たるものが臣下として振舞わず、完全に礼の尊敬の心や謙譲の原則を忘れ、君臣の分が乱れていることに孔子は心を痛めた。この事件をきっかけに孔子は亡命した昭公の後を追うように、門徒たちと共に斉国に行く決意を下すことになる。

野崎晃市(42)
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